タイ・ゴールデン・トライアングル紀行(写真付)
2011年2月4日ー6日
旧正月4連休の初日を、時折雨の降るシンガポールで退屈に過ごした後、2泊3日でタイ最北部の「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれている地域に出かけた。この地域は、後ほど詳しく説明するが、タイ、ラオスそしてミャンマーの国境が接している地域で、ラオスの北数百キロのところはもう中国雲南省である。そうした地理的環境から、昔から中国と東南アジアを結ぶ交易が盛んに行われると共に、山岳地帯の辺境であることから、麻薬の栽培・密輸なども盛んであったという。また、そもそも現在のタイのシャム民族は、中国南西部にいた民族が、漢民族の拡大に押し出される形で中国雲南省を経由して現在のタイに移動したと、別掲のタイの歴史で読んだとおりであるが、その際、南下した彼らが現在のタイに入ったのが、まさにこの場所である。近年は、こうした交易路で文化が交錯するという地域の特徴を生かした観光資源の開発も進み、また日本政府もODAベースで、この地域の観光業への支援を行っていると聞いている。ミャンマーとラオスは、個人的に未経験の国であることもあり、まずはこの機会に、この雰囲気だけでも感じておこうということで、今回の旅行を計画した。
2月4日(金)
旧正月でバスが不安なこともあり、早朝地下鉄でチャンギ空港に向かったが、City Hall駅やTanah Merah駅での接続が悪く、結局家から小一時間かかってしまった。旧正月は、伝統的な華人社会では家族の再会の時間であるというが、近年は日本の正月と同様、ただの連休としてシンガポール人の海外旅行客も増加しているという。そうした新聞記事もあったことから、場合によっては空港が混雑していることもあるかと懸念していたが、実際はチェックインから搭乗までいつものとおりスムースに進み、定刻よりもやや早めの8時30分にシルクエアーMI702便はチャンギ空港を飛び立った。
約3時間のフライトである。機内では小さな子供連れの日本人家族も目に付き、もしかしたら同じグループでの観光かな、などと考えていたが、10時半にチェンマイ空港に降り立って、迎えに着たガイドと合流すると、結局今回も私の単独旅行であることが分かり、ほっとしたのであった。
以前にアレンジしたインドネシア・ボロブドゥール観光のときと同様、カイドと運転手のコンビである。ガイドは、ヴィラット(Virat)さんといい、英語よりも日本語のほうが楽という50歳の男性。運転手さんはダル(Dul)さんといい、言葉はタイ語だけである。ホンダのセダンに乗り込み、早速チェンマイの市内観光に出かけた。
10時50分に空港を出発し、10分もしないうちに、まず最初の仏教寺院であるワット・プラ・シンに到着、続けてワット・チェディ・ルアンへ。これ以降、うんざりするほど訪れるタイの寺院であるが、まだこの時点では新鮮である。天気は快晴。強い陽射しが降り注ぐが、空気が乾いているので、日陰に入ると快適である。
(ワット・プラ・シン)
(ワット・チェディ・ルアン)
現地時間12時前となったことから、ヴィライさんが案内してくれた昼食場所は、チェンマイの街を囲むお堀の外にある、大衆的な「カオソーイ」の店である。「カオソーイ」というのは、タイ北部の名物料理ということで、カレーソースに浸した白いヌードルで、私は鶏カレーの「カオソーイ」を食べたが、丁度日本のうどんのようなしっかりとした歯ごたえのヌードルと風味のあるカレーがマッチしている。タイ版掛けそば、といった感じで、量は少ないことから、もう一杯お替りした。今回の旅行の昼食代は旅行会社負担であるが、値段を聞くと、一杯35バーツということであるので、手ごろな昼食である。食後、車の中で日本のガイドブックを見ていたら、その「ラム・ドゥアン」という食堂が「庶民的食堂」として紹介されていたので、日本人観光客にもそれなりに好評な店なのだろう。
(カオソーイ)
12時半に食事を終え、ガイドの依頼で、タイ・シルクと銀細工の高級お土産屋を冷やかした後、午後1時、車は一路北に向かって出発した。走り出してすぐ目に付いた標識では、目指すチェンライまでは200キロ。但しヴィラットさんによると、最終的な目的地であるゴールデン・トライアングルまでは、またそこから60キロあまりあるという。
チェンマイの町自体、着陸時に飛行機から眺めていると、山に囲まれた盆地のような感じであったが、町を出て20分程度走ると、もう道は山岳地帯に入っていく。時折二車線にはなるが、基本的には一車線の対面交通の道路で、整備の状況はまずまず。快適なドライブである。緑溢れる、曲がりくねった山岳道を走っていると、丁度日本の山道を走っているかのような感覚に襲われる。ウトウトし始めた午後2時頃、山の中のドライブインで小休止することになった。
広大なスペースに各種のお土産屋や食堂が並んであるが、面白いのは、広場の真ん中で噴出している噴水が「温泉」であったこと。確かに噴水の池に裸足を入れてみると熱いくらいである。温度は70度くらいあるということであるが、この地域で火山の活動などあまり聞いたことはないので、観光目的に余程深く掘ったのかな、などと考えていた。
(ドライブ・イン)
(温泉)
(車窓から)
車が出発し、あとはひたすら目的地に向かう。山の中で、大型のローリーが反対車線に飛び出し、先頭を山側に突っ込んで止まっている事故現場もあったが、ダルさんの運転は、時折追い越しをかけるものの安心感ある運転で、快調に飛ばし、4時頃にはチェンライの町のバイパスに入った。ここで今日初めての渋滞があったためやや時間を食われ、午後5時前に、ようやくチェンセ−ンという町の郊外にあるゴールデン・トライアングルのインペリアル・ホテルに到着した。結局チェンマイから4時間近く車に揺られていたことになる。ヴィラットさんによると、このホテルはまさに3つの国境が交差する位置に立てられているということで、ホテルの右側を流れるメコン川の対岸がラオス。ホテルの前でそれに合流する小さな川の対岸、メコン川の左岸がミャンマーであるという。
(ホテル・バルコニーから見たゴールデン・トライアングル)
チェックインを済ませた後、直ちに車で、近所のヴィラットさんお薦めのマーサージ屋まで連れて行ってもらい、そこで二人と別れ、2時間のタイ・ボディ・マッサージ(500バーツ)でリフレッシュした。腕はまあまあといったところであったが、7時半頃そのマッサージ屋を出ると、既にあたりは暗くなっている。丁度ホテルから徒歩で10分くらい、川沿いに歩いたところであることから、帰りに夕食がてら、町の様子を眺めてみよう、という魂胆だったが、通り沿いの土産物屋は、ヴィラットさんが言っていたとおり、ほとんどシャッターを下ろし、店仕舞いである。車の中から眺めた川沿いの大仏とそれを囲む小さな公園(対岸への船着場にもなっている)で、夕暮れのメコン川を眺めただけで、ゆっくりとホテルに向かって歩きながら、夕食の場所を探す。近くの屋台でヴィラットさんが夕食を取っていたが、さすがにそこは寂しいので、結局8時頃にホテルの前まで来て、そこにあった小奇麗なレストランの川沿いのテーブルに落ち着いた。
既にあたりは真っ暗である。店もほとんど閉まっているので、通りも寂しい限りである。そして、何よりも寒い!アジア旅行のいつもの癖で、半袖しか持ってこなかったこともあり、レストランでも、偶に風が吹いてくると、久々に冷え込む感覚に襲われる。そんな状態であったことから、レストランでは、タイ焼きそばと魚介類のカレー風味シチューとビール(390バーツ)で簡単に済ませて、この日はさっさとホテルに戻ったのであった。帰りがけに、ホテル内で唯一開いていたマッサージ屋を覗き、明日のための情報を得たが、残念ながら、それ以外にはどうもここでやることはなさそうである。街の中であれば、ナイト・マーケットなどもあり、食後の散策もできるのであるが、ガイドに聞いても、ここでは何もない、ということであった。この地域を回るにしても、宿泊はチェンライにしたほうが良かったかな、などと考えながら、その後はホテルの部屋で、ローカル放送中心のTVを眺めたり、本を読んだりしながら、早めの眠りについたのであった。
4月5日(土)
6時半のモーニングコールで起床。シャワーを浴びて7時に朝食ブッフェを済ませ、8時前にメコン川沿いの散策に出る。既にドライバーのダルさんは、ホテルの前で待っていたが、8時半の出発予定時刻までには時間があるので、「また戻る」と言い残し、昨日、暗くなった後で立ち寄った大仏のある公園へ向かう。既に中国系を中心にした観光客が出始め、写真を撮ったりしている。日の出前の朝食時は寒かったが、朝日を浴びて、既に気温は心地よいところまで上がっている。メコン川は、あくまで静かに流れ、なかなか雄大な景色である。看板で、周辺の地図が示されているが、3カ国の国境に加え、中国までの距離も非常に近いことを改めて感じる。
(メコン川沿いの大仏と公園)
ホテルに戻り、待っていたヴィラットさんと共に、予定よりも早い8時15分に、国境の町メーサイに向かって出発する。一部舗装のされていない赤土の道で、対向車線のトラックが巻き上げる埃で一瞬視界がなくなるようなところも走りながら、9時前にメーサイに到着。広い道路(パホンヨーティン通り)を左折して狭い参道から急な坂をいっきに登り、頂上にあるワット・プラタート・ドイ・ワオに到着する。ここの売りは寺ではなく、街を一望に見渡すテラスからの景観である。ほとんど一つの町と思われるが、町並みの真ん中に、よく見ると小さな川が流れており、これがホテルの前でメコン川に合流するまで、タイとミャンマーの国境になっているという。従って展望台正面に見える街(タチレク)と、頂上にパゴダが見える山並みはミャンマーである。そして街に入るときに通ったパホンヨーティン通りの正面が、この川を渡るミャンマーへの入り口となっており、ミャンマーというよりも、むしろその先にある中国との主要な交易路になっているということである。
(ワット・プラタート・ドイ・ワオからの景観)
そこでしばらく景色を堪能した後に下に降り、その国境近辺を散策する。国境の入り口には既に通関を待つ車の列ができている。その横を歩きながら、タイ側の川沿いまで移動する。橋の上には、国境を越える人々が歩いているが、明らかに西欧人の観光客のような人々もいる。ヴィラットさんによると、タイ側の通行税が300バーツ、戻る際のミャンマー側の通行税が500バーツということなので、800バーツ払えばミャンマーに入れる、ということであったが、ミャンマー側の店もタイ側と値段も品物もまったく変わらないということであったので、あえてミャンマー側に入ることはせず、それから一人でブラブラとこの通りの近所を散策することになった。
(ミャンマーへの国境)
(タイ最北端の碑)
(国境の川)
翡翠がこの地域の特産品である、ということだったので、ある店で店員の若い女性と日本語で値段交渉をした後、小さな象の置物を1400バーツで購入したが、後で話をするとその女性はミャンマー人で、その店のオーナーは香港人であるとのことであった。「中国語を話す」ということであったので、最後は私の片言の中国語で会話を交わすことになったが、ミャンマー人がタイ側の華人の店で働いている、ということ自体が、この国境の町の特徴なのだろうと感じたのである。その後、通りの反対側のマーケットを眺め、安売りDVDなどを仕入れた後、ガイドとの合流時間まで余裕があったので、もう一度国境の川沿いに戻り、河岸で一服した。ラオス側で、小中学生くらいの子供たちが水遊びをしていたが、驚いたことに、その内の二人が上流で川に飛び込み、ボール遊びをしながら、私が休んでいるタイ側に泳ぎ着き、また飛び込んで遊んでいた。その上の橋では人々が通関に向かい歩いているのであるが、子供たちにとっては、そんな国境はどうでもよいことなのである。ただ川の流れはそれなりにあるので、目の前で彼らが溺れたらどうしよう、という不安もよぎったが、そんなことは、ここでの遊びのプロには全く心配ないようであった。
10時半頃、メーサイの街を出発し、また田舎道を走る。ヴィラットさんが、「少し早いけれど昼食にします」というので、11時過ぎに、水田が広がる長閑な「IYARA」というドライブイン・レストランでブッフェの昼食を取るが、さすがに朝食もしっかり食べたので、あまり食欲はない。ただそれ以外には適当な食事場所がないのかなと思い、取り敢えず休憩も兼ねてのんびりしたのであった。
(昼食レストラン)
12時になると、大型の観光バスが次々に到着し、中国系の団体客等で溢れてきたので、当方は出発。しかし、10分もしない内に私が泊まっているホテルの前に出てきた。「何だ、ここまで近くに来ていたのであれば、もっと遅めに食べればよかったのに」と思ったが既に遅かった。そのまま朝散策したボート乗り場で小さなモーター付ボートに乗り、メコン川に繰り出す。
まずは上流に向かい、左岸のミャンマー側のカジノといわれる建物の近くまで遡航する。これ以上は規則で行けない、というところで折り返し、今度は下流に向かう。川の流れは静かで波もほとんどないが、疾走する細いボートは時々ジャンプしたりして、結構スリリングである。風が強くあたるが、陽射しが強いので気持ちが良い。ラオス側に大きな船が停泊していたが、その横を通る時に見ると中国船籍の貨物船であったので、中国との間の輸送を行っているのであろう。またラオス側にも現在建築中のカジノがあったので、完成後はここを訪れる観光客の暇つぶし場所になるのであろう。こうして10分ほどすると、ボートは対岸のラオス領の船着場に到着する。
気がつかなかったのであるが、ホテル近辺から眺めるメコン川右岸は、川の中州であるドンサオ島と呼ばれている地域で、この島の私たちが上陸した地点は、タイ側からパスポートなしで入れる場所になっているという。といっても、10件ほどの土産物屋があるだけである。ミャンマーはけちって入らなかったが、ラオスには入ったということで、絵葉書だけ買って、再びボートでタイ側に戻ったのであった。
(ボートから)
(ミャンマー側のカジノ)
(ドンサオ島で)
午後1時前に、再び車に戻り、今度はチェンセ−ンの街に向かう。15分ほど走り、街の中心部にあるチェンセーン博物館に到着する。この街は11世紀から14世紀にかけて栄えたランナータイ王朝が最初に作った街ということで、かつて多くの寺院があったが、戦争でそれらが破壊された後、発掘された遺品が展示されている。小さな博物館であるが、それなりに展示品をきれいに見せる工夫をしている。丁度、ここに来る時に、広い通りが何かの行列で規制されており、迂回して着いたのであるが、建物から出てくると、この行進が丁度前の道を過ぎていくところであった。葬儀の行進のようで、大きな女性の写真と数人が乗った山車が、100人を越える人々が先頭になって引かれていく。一般の人々に混じってお坊さん20人くらいの集団もある。ヴィラットさんによると、これはこの地域特有の葬儀の行進で、おそらく故人の女性は、この町の有名な先生などではないか、とのことであった。例えば、ヴィラットさんの住むチェンマイでは、こうした習慣はない、ということであった。
(葬儀の行列)
その後、ワット・チェディ・ルアン(ここにもあった)、ワット・パサックという2つの寺、またはその廃墟を眺め、午後2時にはホテルに戻ってきた。既にヴィラットさんには、早く帰れるのであれば、それはそれで結構、と言っておいたこともあり、彼らとはこれでこの日は別れることにした。空気は乾燥しているが陽射しは強いので、早速ホテルのプールで日光浴をすることにした。管理人も含め誰もいないプールで、4時頃までゆっくり泳いだり日光浴をしていたが、考えてみればここのところシンガポールの天気が不順で、ほとんどこうした機会を持てなかったことに気がついた。久し振りのプールサイドでの怠惰な時間であった。
陽射しが弱くなった4時過ぎにプールから上がり、夕方の手配に入った。4時にホテルのマッサ−ジ屋が開くということだったので行ってみると、既に西欧人数人が足マッサージをやっているところであった。ホテルを出て直ぐの通り沿いにも一般のマッサージがあり、こっちも覗いてみたが、まだ鍵がかかって無人であったので、結局ホテルの店で6時スタートの予約を入れ、いったん部屋でゆっくりして、6時から、1時間のオイル・マッサージをすることにした。昨日と同じ値段(500バーツ)で、時間は半分(1時間)ということであるが、同じ店で2回やるのもつまらないので、こっちにした。マッサージの後は、昨日夕食を食べたレストランの横に、少し小振りのバーのような店(「Golden View Restaurant」)があったので、そこでグリーンカレーと白米、ビール(190バ−ツ)の軽い夕食を済ませ、その後ホテルの部屋で、ゆっくり過ごしたのである。
4月6日(日)
最終日。この日は7時半ホテル発、ということなので、5時半に起床し、6時に朝食。7時過ぎにはチェックアウトを済ませ、ロビーで新聞を読んで過ごした。丁度、タイとカンボジアの国境、以前から係争が絶えなかった世界遺産プレアビヒア寺院の周辺地域で、数日前から新たな砲火を交えた戦闘が始まっており、兵士のみならず、民間人の死者も出ていることから新聞はこの記事で溢れていた。こうした国境紛争が起こると、それこそこの地は3カ国、あるいは中国も入れれば4カ国が絡んでくるので、たいへんであるが、取り敢えず、現在のところここではそうした気配がないのは良いことである。
1時間ほど車で走り、8時半頃、少数民族の居住地に到着した。山岳民族が中心であるということだったので、山の中に入るのか、と思っていたら、普通の街からちょっと奥に入った程度の場所。入園料を払って、その地域に入ると、小さな小屋に各種の少数民族が住んでいる。ガイドに「学校は?」と聞くと、その地域内に彼ら専用の学校があり、一般の学校に行くことはないという。ある場所は有名な首長族として知られるパドゥン族、ある場所はアカ族、ヤオ族等々といった感じで、夫々素朴な土産を売っている。夫々の民族が、特有の衣装を着て、写真も勝手に取れるのであるが、何か動物園を回りながら、色々な動物を見ているような感覚に襲われ、そこで見ている対象が人間であると考えると、何かとても不遜なことをしているように感じざるを得なかった。もちろん彼らは彼らで割り切って、観光客の視線やカメラに自らを晒し、土産や寄付で小銭を稼いでいるのであろうが、やや割り切れない気持ちから、早々に切り上げ、9時前にはチェンライ市内の観光に向かった。
(少数民族の人々)
ランナータイ王朝の建国者で人気のあるメンラーイ王の像を眺めてから、また寺院である。ワット・プラケオ、ワット・プラ・シンと2つ回るが、そろそろタイの仏教寺院も飽きてきた。街の小さなマーケットを覗いた後、10時過ぎに、最後の観光ということで少し郊外に出たところにある「ホワイト・テンプル」こと、ワット・ロン・クーンに到着した。
これは今までの歴史的な寺院と異なるモダンな寺で、白いセメントに無数のガラスが埋め込まれていることから、明るい陽射しの中、幻想的な輝きを発している。外人観光客のみならず、明らかにタイ人と思われる観光客で、境内は混雑し、建物の入り口には行列が出来ている。私も列に並んで、寺院の入り口まで行ったが、しかしどちらかというと、遠くから見ているほうが美しい建物である。また横にある土産物屋に飾られているプリント画も、モダンな面白いデザインのものが多く、寺のパンフレットと共に小さなプリント画を合計150バーツで購入した。帰宅後、そのパンフレットを見てみると、この寺はタイの有名な建築家によるプロジェクトで、丁度ガウディの聖家族教会のように、まだ延々と工事は続くとのことである。掲載した写真以外の建物も、まだ建築中であり、内装や壁画もまだこれから続々と完成する予定であるという。伝統の国タイでのモダンな寺院ということで、今回回った中では、確かに最も強い印象が残ったのである。
(ワット・ロン・クーン)
こうして11時前に、チェンライでの観光を終えて、一路来た道と同じ山道を走り、チェンマイに向かう。ダルさんの運転は安心できるので、音楽を聴きながらウトウトしているうちに、何度かの休憩を経て午後1時前にチェンマイまで戻ってきた。昨日早い昼食で参ったので、この日の昼食は少し遅くして欲しいと頼んでいたこともあり、チェンマイに戻ってからの昼食である。この日のレストラン「Satesinlp Restaurant」は、緑に囲まれた、西欧人も多く入っているようなしゃれたタイ料理のレストランで、今回食べる機会のなかったトム・ヤンクンとグリーンカレーを注文。双方とも、それほど辛くなく、且つコクのあるなかなか美味しい昼食であった。
食後、5時45分発の飛行機までの時間潰しを、ヴィラットさんと相談する。メニューは土産物屋かマッサージ、ということだったので、もちろん後者を選択。こうして午後2時から4時まで、チェンマイ最後の時間を、またボディ・マッサージ(500バーツ)で過ごすことになった。
そこから空港へはほんの10分。空港でヴィラットさんたちと別れ、4時半にはチェックインを済ませゲートへ。帰りのシルクエアーMI705便は、定刻15分前に出発し、チャンギにも予定より早い9時半に到着。旧正月連休の最終日ということで、チャンギのパスポート・コントロールはずいぶんと込み合っていたが、それでも10時半前には自宅に帰りついたのであった。
今回の旅行の目玉は、やはり東南アジアの北部、幾つかの国境が接している地域で、文化が交錯する様子を生で感じられたら、ということであったが、残念ながらガイド任せの能天気な観光旅行では、あまりそうした面に触れることは出来なかった。もちろんメーサイの店などでミャンマーとタイ、中国が接する様子の一端は感じることができたが、他民族の共存ということ自体はある意味、ここシンガポールで日常的に眼にしている姿である。私が期待したのは、例えば同じ仏教寺院でも、異なった文化が入ることにより、バンコク等では見られない刺激的なデザインや様式が発展するといったことであるが、もちろんガイドの説明で、「この仏像はミャンマー様式だ」とか、「書かれている文字はミャンマー語だ」とか言われても、基本的には、私が今までバンコクなどで接してきたタイの仏教文化と然程違うものでもなく、その意味では、それらが新鮮な驚きを感じさせるまでには至らなかったのである。
ただそうは言いながらも、実際に国境を身近に感じるというのは、それなりに気持ちを高揚させる。それは、かつて欧州の「ゴールデン・トライアングル」であるマーストリヒトを訪れた時にも抱いた感覚であるが、その際の三カ国(ドイツ、オランダ、ベルギー)がそれほど政治体制に変わりがなく、またEU統合(シェンゲン協定)でパスポートさえ不要であったのに対し、ここアジアのそれは、片や社会主義国、片や軍政が続き国際社会から経済制裁を受けている国であるということから、国境の意味合いは比較にならないほど重い。他方で中国や東南アジアの経済的一体化の進展で、交易面では益々重要性を増している国境なのである。この地域を次に訪れる機会が何時来るかは分からないが、間違いなくこの地域は、それに接する夫々の国家と共に、これから数年で大きく変貌していくことになるのだろうという思いを強くしたのであった。
2011年2月9日 記