ミャンマー紀行(写真付)
2012年1月21日ー23日
1月21日(土)から24日(火)までは、例年よりも早い旧正月の休みである。シンガポールに来てから4回目のこの旧正月は、以前より強い関心を持っていたミャンマーに出かけることにした。
ミャンマーは、アセアン10カ国の中では、最も多くの政治的・経済的問題を抱えた国であった。1948年の英連邦からの独立後も政治党派の対立に、民族・宗教の対立が複雑に交錯し政治が混乱する。それを強権的に抑える軍事政権が成立、時折民主化運動が発生するが、それがまた強権により抑えられるという歴史を繰り返してきた。特に1988年の民主化運動と、それに続く1990年の選挙でアウン・サン・スー・チー女史率いる国民民主同盟が圧勝した際は、軍政側は民政移行を拒否し、スー・チー女史を自宅軟禁すると共に、多くの政治犯を逮捕し、それに対し米国やEUが経済制裁を課したことから、経済面でも厳しい状況に置かれてきた。2007年9月の暴動の際に、日本人ジャーナリストが狙撃され死亡したのも、まだ新しい記憶である。
しかし、ここに来て、ようやく民主化の道がしっかりと進むのではないかという希望が大きくなっている。特に2010年11月の総選挙を経てテイン・セインが大統領に就任すると、スー・チー女史の自宅軟禁を解き、また2011年後半になると、それまで中国一辺倒であった外交や経済支援要請も大きく転換し、欧米向けに舵を切ることになった。ここ数カ月は、米国クリントン国務長官やフランスのジュペ外相らの訪問、1988年の民主化運動指導者を含む政治犯約1000人の釈放、来る4月1日の補欠選挙でのスー・チー女史の立候補承認、そして長らく内戦状態が続いていた少数民族カレン族の政治組織カレン民族同盟(KNU)との停戦合意等、この国の民主化を物語る記事がメディアに連日溢れている。経済面でも、中国からの経済支援の象徴であったイラワジ川のダム建設計画が、環境問題を理由に突然工事延期となり、中国を激怒させると共に、他方では欧米のみならず、日本の経団連を始めとする西側経済関係者にアピールを行う等、その姿勢は大きな変化を見せている。昨年末には、ここシンガポールの商工会議所までもが、この国の視察ミッションを組んでいたようである。
まだこの国には証券取引所はないことから、私の仕事では直接ここを訪れる機会がない。他方でアセアン10カ国の中で私がまだ足を踏み入れたことのない国はここだけである。そうしたミーハー的な感覚もあり、今回はこの国のかつての首都ヤンゴンと旧都バガンを回る旅に乗ることになった。
1月21日(土)
個人的なことではあるが、この日は私の何回目かの誕生日である。シンガポールで一人の誕生日を過ごすのも寂しいというのも、この旅行の動機の一つであった。旧正月の週末の早朝、5時53分に最寄りの駅を通過する始発の地下鉄に乗って空港へ向かった。
6時40分に空港に到着したものの、旧正月に移動しようという人々で、予想通りたいへん混雑している。私の搭乗するヤンゴン行シルクエアー512便は7時55分発なので、まだ余裕はあるが、それでも最初に指示されたチェックイン・カウンターには50m以上の長蛇の列ができている。そこで係員に文句を言うと、ほとんど列のないシンガポール航空のカウンターへ移ってよいということで、結果的にその列を避けることができた。ラッキー!
定刻の8時に飛行機は出発。到着予定時刻は9時20分となっていたので、1時間の時差を想定すると2時間20分程度のフライトなのかな、と思っていたが、機内の案内で、シンガポールーヤンゴンの時差は1時間半であることが分かった。略3時間のフライトである。
こうして現地時間9時半にヤンゴン空港に到着。予想通り外人向けパスポート・コントロールは無秩序に込み合っており、そこを通過するのに30分程度かかったが、事前にシンガポールのミャンマー大使館で取得したヴィザを含め手続き自体は何の問題もなく、10時過ぎに迎えに来ていた現地ガイドと合流した。
今回の現地ガイドは、Cさん(仮名)という妙齢のミャンマー人女性。いつものように、「英語と日本語のどちらが楽ですか?」と聞くと、「日本語です。」とのこと。しかし時間の経過と共に、仏教寺院の主宰する日本語学校で勉強しただけで、日本滞在の経験のない彼女の日本語がたいへん素晴らしいということが分かってくるのである。
車で、最初の訪問地である「シュエダゴン・パゴダ」に向かう途中、スケジュールの詳細やミャンマーの概要等につきCさんから説明を受ける。何と彼女は、今日の午後に国内線の飛行機で移動するバガンを含め、全行程に同行してくれるという。そしてそれ以降も彼女は、私からの、時には政治的なものも含むいろいろな質問にも、滞りなく答えてくれることになったのである。
また今回の旅行に際してはミャンマーに関わる日本語の観光ガイド本は準備できず、事前にネットでの旅行記を2−3簡単に見ただけである。その代わりに持参してきたのは、2007年に中高時代の友人が出版した「ビルマとミャンマーのあいだ」(瀬川正仁著)と、戦後のラングーン近くでの英軍の捕虜としての抑留体験を記録した「アーロン収容所」(会田雄次著)の2冊の本である。前者は、ヤンゴンやバガンのみならず、ミャンマーの全域を回った旅行記で、Cさんに見せると、「よくこれだけの地域を回りましたね!」と驚くほどの内容であるが、これがガイドブック替りで大活躍することになった。最初の訪問地、「シュエダゴン・パゴダ」も、まさにこの本でたっぷり取り上げられている。
(シュエダゴン・パゴダ:10時半―11時20分)
ヤンゴン中央部の丘に位置する、高さ97メートルの巨大なパゴダである。瀬川氏の本では、入り口のエレベーター塔が、あまりにこのパゴダに似つかわしくない、と紹介されているが、二機あるエレベーターの内、向かって左は地元用、右が観光客用で、ローカルは無料、観光客は4米ドルの入場料が必要とのこと。地元の人々にとっては、このパゴダのみならず全ての寺院はお祈りの場であると共に、そこでお弁当を食べたりするピクニックの場所でもあるということで、無料になっているとのことである。そのエレベーターを降りてしばらく進むと、直ぐに明るい日差しに金ピカに輝く壮大なパゴダが現れる。
瀬川氏の本にも書かれているが、巨大なパゴダの隅に置かれている8種類の曜日の神様である動物に、地元の人々がお供えをし、水を掛けて清めた上でお祈りをしている。この8種類の曜日の神様は、昔のミャンマーで使われた8曜日暦の名残で、水曜日が午前と午後に分かれているとのことである。土曜日のお昼、陽射しは強くなってくるが、乾燥しているので、日陰に入ると快適な涼しさで、ここで地元の人たちがお弁当を広げてゆっくりするのも理解できる。この地に住む兄弟が、紀元前にインドから仏陀の頭髪を持ち帰り、ここに奉納した、といった来歴の説明を受けながら広大なこのパゴダを一周したが、その他の小さな神殿の仏像や彫刻なども、タイのそれとはまた少し異なっているようである。
(シュエダゴン・パゴダとその境内)
(市内散策―ボージョー・アウンサン・マーケット:11時半―12時10分)
パゴダを出て、町の散策に移る。案内されたのは、一般の市民の買い物の場所であるマーケットである。コロニアル風の建物の中に、アジアでよくある小さな商店がひしめいている。しかし、例えばホーチミン市のドンコイ市場のような人の群れと活気がなかったのは、偶々訪れた時間のせいだったのだろうか?お土産品の店などを短時間眺めながら、のんびりと散策した。瀬川氏の本に、「ラングーン中心部にあるピアーセ通り、通称占い通り」という記載があったので、Cさんに、それはこの近所にあるのか、と聞くと、「ピアーセ通りというのは、特定の通りではなく、パゴダのお祭りの時に出来る屋台通りのことで、そこにはいつも占い師も店を出している」とのこと。ただ、帰国後瀬川氏にも確認したが、やはり常設の占い師が並んでいる通りはあるようで、別の方の旅行サイトでも線路沿いに並ぶ占い師の店が紹介されていた。偶々Cさんが知らなかったということであろうか?
(マーケットの建物とビジネス街)
(昼食:Oriental House:12時半―13時半)
閑静な住宅街にあるレストランに向かう。ここは中国人の経営する飲茶レストランということであり、シンガポールのそれに比べるとやや洗練されてはいないが、食べ易い飲茶メニューを楽しんだ。喉が渇いていたので、早速「ヤンマー・ビール」の生を注文すると、これが切れのある何とも美味しい味であった。Cさんによると、ミャンマーではあまり生ビールは一般的ではないとのことで、確かにその後は瓶がカンのビールだけになった。
ここで、ゆっくりとミャンマー語の基本用語の勉強をする。いつものとおり、基本は3つ。「こんにちは(ミンケラーパ)」、「有難う(チェースーペ)」、そして「さようなら(ターター)」。その他「美味しい(サーカンディ)」や「お勘定を下さい(ビービバ、あるいはシンメイ)」なども教わったが、それ以降は基本3語を繰り返し使うことになる。
(バガンへの移動:13時半―18時)
食後、バガン(Bagan)への移動のため、飛行場に向かう。Cさんの話しでは、現在ミャンマーの航空会社は、国営のミャンマー航空と、民営の5社があり、国内の同じような路線に就航しているが、今日我々が乗るヤンゴン航空が、最も評判が良いとのこと。予定では15時発ということで、14時に国内線ターミナルに到着し、チェックインを済ませる。
この15時発のYH731のバガンへの予定到着時刻は17時40分。シンガポールーヤンゴンがジェット機で3時間弱なので、これだけ時間がかかるということはプロペラ機だろうと考えていたが、実はそれだけではなく、この便は途中2つの空港を経由して行くという。ミャンマー中部にはヘーホ(Heho)とマンダレイ(Mandaley)という観光地があるが、この便は、バガンを含めた3つの飛行場を、午前中は時計回りで、午後はそれと反対回りで循環しているということである。我々が搭乗する午後の便は、ヘーホ、マンダレイを経由してバガンに行くので2時間40分ほど要するが、ヤンゴンーバガンの直行であれば1時間半で済む。ということは帰りの便は午前中なので、やはりこの2箇所を経由することになる。どうせなら、1日中、同じ方向で循環するのであれば、往復のどちらかは短い時間で済むのであるが、何故午前と午後で回り方を変えるのかは不明である。しかも午後の便は、朝からの遅れが蓄積し、だいたい遅延するということである。実際、この日も小さな待合室で待っていると、私たちの便は30分程遅れるということであった。
しかし、3時20分に案内があり、徒歩で搭乗すると、10分後には直ちに離陸。16時40分にヘーホに到着すると、15分程の待機時間でまた直ぐに出発。マンダレイには17時20分に到着し、給油で20分ほど待機した後再び離陸し、18時過ぎにはバガン空港に到着したのであった。各空港で乗客の乗り降りがあり、簡単な機内清掃もあるが、非常に効率的で、待機時間が終わると、あっという間に離陸するということで、あまり時間を浪費しているという感覚はなかった。バガンの到着は丁度日暮れ時であり、着陸前に雄大に流れるイラワジ川を窓から眺めることが出来た。
(夕食:18時30分―20時)
到着が遅れたこともあり、空港から直接夕食のレストランに向かう。名前は忘れたが、オープン・エアーのレストランで、遺跡を背景にしたステージが設定されている。内容はミャンマー料理ということであるが、豆のスープに鳥の空揚げや野菜炒めなど、お腹に楽なメニューである。地元ブランドという缶入りのマンダレイ・ビールも、また乾いた喉に染み渡る。客は、我々の他は、6人の中国人旅行者と年配のカップルの3組だけであるが、しばらくすると、ステージの上で、竪琴の伴奏による女性の歌、若い女性たちの踊り、人形劇などが披露される。まあ、ちょっとした余興といったレベルではあるが、それなりに楽しめる。そもそも乾季であることもあり、風は涼しく快適である。ステージの背景にある遺跡も暗くなってくると照明が灯され暗闇の中で浮き上がっている。
(民族ダンス)
(パゴダ夜景:20時10分―20分)
夕食後、証明に照らされたイラワジ河畔のパゴダに案内される。同じ昼間見たパゴダと同様金箔で覆われた、やや小振りのパゴダであるが、滞在して5分ほどしたところで、照明が一斉に落ち、回りは真の闇に包まれることになった。Cさんは、「ここでは時々停電があります」と済まなそうにするが、見上げた空は、北斗七星を中心に、とんでもない星の輝きで満たされている。照明がある時には見えなかったイラワジ川も、その広大な川幅が暗闇の中に確認できる。結局灯りが戻る感じではないので、Cさんの持っていた小さな懐中電灯を頼りに注意して階段を下り、駐車場まで戻った。駐車場の灯りは点っていた。こうして20時半ころ、今日、明日の宿泊場所である「Bagan Treasure Resort」にチェックイン。別のホテルに泊まるというCさんと別れ、部屋では開催中の全豪オープン・テニスを見ながら、ゆっくり過ごすことになった。ホテルへのチェックイン直後に再び停電があったが、さすがに外人観光客向けのホテルは自家発電があるようで、1分もしないうちに回復した。ただ翌日のCさんの話だと、彼女の宿泊したホテルは自家発電設備がなく、彼女は結局就寝まで暗闇の中で過ごしたということであった。
1月22日(日)
終日、バガン観光の1日である。6時半に起床し、ブッフェの朝食を食べた後、8時半に、迎えに来たCさんと運転手と共に出発した。天気は快晴。夜明け前の朝食時は冷え冷えとしていた空気も、もう気温があがり、丁度心地よい気候である。
(ホテル入口と宿泊棟)
バガンは、ミャンマー中部のイラワジ川に面した乾燥地帯にある旧都である。紀元1世紀に既に町はあったようであるが、栄えたのは12世紀のアノヤーター王の時代から250年ほどで、13世紀後半にモンゴル軍の侵攻により弱体化し、14世紀後半に向け衰えていったという。その間大乗仏教の影響を受け、国王のみならず一般の国民までがパゴダや寺院の建設を行い、ある記録によると当時は4500近い宗教建築があり、また現在でも確認できる古代建築は、このバガン地区で3122にのぼるということである。平坦な乾燥地帯に無数に存在するこうしたパゴダや寺院をこれから回ることになるのである。
(シュエズィコン・パゴダ:8時50分―9時40分)
最初に案内されたのは、シュエズィコン・パゴダという、昨日見たヤンゴンのシュエダゴン・パゴダに匹敵するような大きさと金箔に彩られたパゴダである。8種類の動物が略同間隔で周囲を囲っているのも同じ。4隅にある足を両側に広げた獅子像や別棟にある木の彫刻等が印象的なパゴダである。
(パゴダ、仏像、花売りおばさん)
(ティローミンロー寺院:9時50分―10時20分)
パゴダが封鎖された仏塔で、中に入ることは出来ないのに対し、寺院は東西南北に入口があり、それぞれ建物に入ったところの正面に仏像が置かれている。そしてそれらが内側の通路、時には二重に造られた通路で繋がっている。通路には昔は壁画があったようであるが、残念ながら現在ではきれいに残っているものは少ない。Cさんによると何度かの地震で煉瓦を覆っている漆喰が剥がれ、壁画も崩れてしまったということのようだが、恐らく歴史過程では盗賊により持ち去られたりしたこともあったのだろう。
(ティローミンロー寺院と近所で開かれていた壺のマーケット)
(アーナンダ寺院:10時30分―11時10分)
こうしてバガン遺跡の中で最も美しい寺院と言われるアーナンダ寺院に回る。確かに煉瓦を重ねた基本構造の上に、金箔で飾られた塔が乗っている景観はなかなかなものである。しかし、中の仏像はいろいろ様式は異なり、Cさんも一生懸命説明してくれるが、そろそろどれも同じように思えてくる。売店で売られていた、布の上に砂の基盤を作り、その上に彩色した仏教模様の画に興味を引かれたが、気にいったデザインは大きな物しかなかったので、ここでは購入を控えた。
(アーナンダ寺院)
(タッピニュー寺院:11時20分―11時50分)
この寺院は、バガンで「最も高い」65mの塔を持つ大きな寺院である。内側を抜ける階段で最上階に昇れるようであるが、現在は入口が閉鎖され、そこに祭壇が設けられていた。
(昼食:12時―13時)
昼食は、しゃれた郊外の西洋料理のレストランに案内された。メインで選択した川魚のソテーは塩加減も丁度でなかなか美味であった。実は、前日、今日の午後は適当な時間で観光は休止し、マッサージをやりたいと依頼していた。本来は、タイやマレーシアで行っているような一般の人々が行くような場所が良いのであるが、恐らく観光客向けのところを選んだのであろう。Cさんが紹介してくれたのは、このレストランの別棟にあるスパのマッサージである。値段も1時間25米ドルとタイやマレーシアに比較して高いが、時間もないし、Cさんを困らせる必要もないので、食後、そこで2時からのボディ・マッサージを予約して、午後の観光に出かけた。
(マヌハ寺院:13時10分―13;30分)
モン族のマヌハ王により建設されたこの寺院は、まず正面にある大きな仏像が、狭い空間に張り付くように座っている姿が印象的である。そしてその横の狭い通路を抜けると、左右にもう2体、大きな仏像が現われる。また後方には、やはり狭い空間に大きな寝仏が横たわっている。何となくこの王様は、閉所恐怖症の逆で、狭い空間に仏像を閉じ込める趣味を持っていたようである(その後2020年12月に読んだ、大野徹著「謎の仏教王国パガン」(別掲)によると、この寺院はアノーヤター王のタトン征服に伴い捕虜として連行されたモン族のマヌハ王が1059年頃建立したが、この仏像の見るからに窮屈そうな感じは、捕虜として幽閉されていたマヌハの心情を表したものと考えられている、ということだそうである。しかし、捕虜として幽閉されていても、こうした壮大な寺院の建立が可能であった、というのも驚きである)。
(寝仏)
(ダマヤンジー寺院:13時40分―14時)
日中の最後は、ナラトゥ王が、王となるために父、兄、王妃を殺し、その鎮魂のために建てたが、そのナラトゥ王も最後は王子により暗殺されたという、物騒がせな寺である。夜になるとナラトゥ王の幽霊が徘徊するというのも、それをネタにした客寄せ話であろう。遠目で見るとエジプトのピラミッドのような概観を持つ建築である。この寺院で、先ほど興味を抱いた砂に彩色した絵で、私の気に入ったデザインの小さなバージョンがあったので、いつものような値引き交渉の上、8米ドルで購入した。
(ダマヤンジー寺院)
(マッサージ:14時15分―15時15分)
こうして昼食をとったロッジに戻り1時間のボディ・マッサージを受ける。若い女性であったが、残念ながら値段の割にはやや痛いだけで、余り効いたという感じはなかった。
(ホテル・プールサイド:15時半―16時半)
その後15時半頃に一旦ホテルに戻る。陽射しも強く、プールの水もきれいなので、運動不足解消もあり、ここで一回泳いでおこうという魂胆である。プールサイドでは、西洋人の観光客がゆったりと寝そべっているが、泳いでいる者はいない。
そんな中、私は水に入っていったが、何と冷たい!外は十分暖かいのだが、この水の冷たさは何だ、という感じで、2往復したところで心臓麻痺を起こすのではないか、という恐怖に襲われ、泳ぐのはそれだけにした。しかし外に出れば、陽射しは強く、まったく寒さは感じないのである。結局しばらくデッキでゆっくりしてから、シャワーを浴びに部屋に戻ったのであった。16時50分、再び迎えに来たCさんと出発する。
(プールサイド)
(シュイセンドウ・パゴダ:夕陽見学:17時20分―17時50分)
夕陽が最も美しく見えるパゴダということで、日の入りの30分ほど前に到着。5層パゴダの急な階段を手すりに掴まりながら最上階に昇る。既に最上階の西側は、夕陽観光に訪れた人々が占拠し、三脚のカメラなどを構えている。こちらは、それほど熱心な観光客ではないことから、夕陽と反対方向の空いたテラスで写真を取ったりした上で、最後に西側に移った。まさに平野に広がるバガンの無数のパゴダの景観は素晴らしい。西ではイラワジ川が流れ、その奥にある山に次第に大きな夕陽が沈んでいく。しばらくそれを眺めていたが、いざ沈んでしまうと人々が狭い階段に殺到するのではないかと考え、我々はまだ夕陽が残っている間に、そこを下りて夕食に向かったのであった。
(シュイセンドウ・パゴダからの景観)
(夕食:18時10分―19時20分)
この日の夕食は、ミャンマー料理であるが、いつものようにたいへん食べ易いメニューであった。しかしこの日の特徴は、レストランでの本格的なマリオネット劇である。昨日屋外のレストランで見たよりも、人形も凝っており、動きも繊細で本格的な人形劇である。瀬川氏の本によると、そもそもはこの人形劇は、政治や社会に対するシニカルな諧謔を含んでいたもののようであるが、軍政時代にそうした表現は禁止・抑圧されてしまったということである。雪解けを感じる現在、そうした大衆芸能が本来持っている権力批判といった側面がどの程度この日のパフォーマンスにあったのかは分からなかったが、食事の間の余興としては十分楽しめた。
(マリオネット)
(ブーパヤー・パゴダ:19時30分―19時50分)
食後改めて照明に照らされた夜のパゴダに案内される。今まで見たことのない釣鐘型の然程大きくないパゴダであるが、今回は電気が切れることはなかった。地元の若者が大騒ぎしながら写真を撮っているのを横目で見ながら、そこを出てホテルに向かった。20時、ホテル着。
1月23日(月)
最終日である。8時過ぎのフライトでヤンゴンに戻ることから、5時半に起き、朝食を食べてから6時50分にホテルを出発した。空港までは10分。フライトも朝は定刻どおり出発し、またマンダレイとヘーホを経由して、予定よりも20分早い10時25分にヤンゴン空港に到着した。直ちにこの日の観光場所であるチャウタッジ・パゴダへ向かう。
(バガン空港)
この日は中国の旧正月であることから、途上にある中国寺院の前には人だかりが出来、警察官が車のコントロールを行っている。Cさんも、「普段ここに警察が出ることはありませんので、今日は特別です」と言うが、ここでも中国人パワーがそれなりの存在感を持っているのは間違いない。他方、その後車で通過した中華街では、店のほとんどがシャッターを下ろし閉まっており、それに隣接するインド人街が混み合っていたのだった。因みに、この国の正月は、タイやラオスと同じ4月半ばで、その時はやはり水掛け祭りが行われるという。
(チャウタッジ・パゴダ:11時―11時30分)
住宅街の中にあるパゴダに到着する。この巨大な寝仏は20世紀に入ってからの建造物であり、当初は首が上を向いていたが、途中でデザインが変わり寝仏になったという。現代の建造物なので、足裏の模様なども精巧に作られているが、まあそれだけである。むしろそこから眺めた周辺の景観が、市内にいるも関わらず喧騒から離れた感じがあり、地元の人々にとっては格好のお祈り、ピクニック場所なのだろうと感じた。
(寝仏と周辺の景観)
(市内散策:11時50分―12時20分)
中心街に向かう。片側3車線の直線道路を走っていた時に、Cさんが、「日本の記者が撃たれたのはこのあたりです」と言う。それは街の中心にあるスーレー・パゴダに向かう幹線道路で、2007年のデモの際は、この幹線道路が、反体制派と軍隊の主戦場になったようである。あの時ロイター通信の長井記者が撃たれた瞬間のヴィデオが何度もテレビで放映されたので記憶に残っているが、そこは確かに広い道路で交差点から直ぐのところであった。この日は、その道路は車で埋め尽くされており、デモ隊と軍隊の衝突の雰囲気などは微塵たりとも感じることは出来なかった。
スーレー・パゴダの横で車を降りるが、そのパゴダには入らず、中心街の散策をする。この地域はヤンゴン川の河口に近く、港湾関係の役所が目に付くが、それ以外にも国税庁や国営外貨銀行、それに一般の民間銀行なども軒を並べていた。しかし、民間銀行は、ちょっと外から覗いた限りでは、まだ日本の昭和初期の事務所(と言っても、もちろん私もそれは知らないが)という感じで、先進国並みの銀行の体裁を整えるにはまだまだ時間がかかるかな、という気がする。丁度お昼時なので、建物から人が通りに出てくるが、外食すると言うよりは、皆何か持ってきてオフィスで食べた後、外に出てきたという感じである。
しばらく歩くと、ヤンゴン川のほとりに出る。河口が近いせいか、既に川幅も広く、そこにフェリーや大きな貨物船が停泊している。川に沿って広い通りが走っており、それに面してコロニアル風の建物が並んでいる。瀬川氏の本でも取り上げられている、コロニアル・ホテルとしては、シンガポールのラッフルズや香港のペニュンスラと肩を並べた「The Strand」もその一つである。中に入る時間はなかったが、そのあたりが植民地時代の中心街であることは十分感じられた。
(ヤンゴン川とフェリー)
(昼食:Monsoon Restaurant & Café:12時半―13時半)
車で最後の食事のレストランに向かう。ビルの一角にあるしゃれたレストランで、客は西洋人だけである。ここで最後のミャンマー・ビールと料理を味わい、そのまま空港へ向かう。初日に往復し、この日も午前中に反対方向に走った道であるので、道すがらの景観はもう馴染みを感じる位である。13時50分に空港に到着し、チェックイン。最後まで確認のため残っていてくれたCさんに、ガラス越しに別れの挨拶をし、パスポート・コントロールに向かう。いつものように会社向けのお土産として空港内の店舗でチョコレートなどを探すが、ここでは見事にお菓子や食料品でお土産になりそうなものは販売していなかった。搭乗までの時間で、会田の「アーロン収容所」を読了。16時40分、飛行機(MI517)はヤンゴンを出発し、時差の1時間半が戻り、21時15分チャンギに到着した。チャンギでは珍しく、ゲートに到着した後、ゲート機器の故障ということで20分位機内で待たされたが、その間は隣のスイス人のカップルで、これからトランジットでチューリッヒに帰るという二人と雑談しながら過ごしたのであった。行きと打って変わってガラガラのバゲージ・クレームを抜け、10時にバスでチャンギを出発。旧正月の家族連れで賑わうマリーナを経由して自宅に戻った時には午後11時になっていた。
今回の旅行で印象的だったのは、予想していたとおりであるが、かつて2007年に瀬川氏がこの国に関する本を出版した当時とは打って変わったような解放感であった。Cさんも、何度も言っていたように、2010年の選挙前と後ではすっかり国の雰囲気が変わったということである。瀬川氏の本では、当時スー・チー女史の話をする際は「あのおばさん」という表現で、みな直接名前を呼ぶことは避けていたと書かれているが、今回の旅行では、少なくともCさんとは最初からスー・チーの名前を出して話をし、また彼女もスー・チーに対する敬意は隠すことがなかった。「あのおばさん」といった代名詞で表現することなど全く考えられなかったのである。また選挙後新しい国旗と国歌が制定されたということであるが、特に国旗については人々に馴染みのないデザインが投票で簡単に承認されてしまったことに、直接的な疑問を感じているようであった。少なくともこうした異なる意見を表現できるようになったということは、この国にとって大きな前進である。その結果として外人観光客も戻ってきており、Cさんによると、感覚的には選挙前と比較して5割以上西欧からの観光客は増えているとのことである。それは、今回の旅行で国内線の飛行機の客やパゴダを訪れる観光客を見ていて私自身も感じたことであった。
他方で、例えばヤンゴン市内にはまだショッピング・センターのような商業施設はないようで、この街の一般の人々の生活水準がタイのバンコクやヴェトナムのホーチミンのレベルに至るまでにもまだまた時間を必要とするのも確かである。バガンのような観光地では、外人観光客向けの施設は整っているが、観光客が地元の商店やレストランに気軽に足を踏み入れるといった感じはない。ここでは軍政時代から引続き、外人から出来る限り外貨を引き出すための二重の価格体系が存在していると見るべきだろう。むしろそうした外人観光客と地元民の双方が共通に足を運べるインフラが出来上がった時に、この国も初めて全体としての国民の生活向上を実感できるのであろう。パゴダでお祈りをし、そしてお弁当を食べている庶民の姿を眺めながら、こうした素朴な民衆がそれなりの生活水準を享受できるまでに必要な時間に思いを馳せざるをえなかったのであった。
2012年1月28日 記