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旅行
北インド紀行(写真付)
2013年2月10日ー13日 
 今年(2013年)の旧正月は、例年よりも遅く2月の半ばになった。それにも関わらず、シンガポールの天気は、2月に入ってもまだ雨が多く、外で運動のできない週末が続いている。そんな中、日本からこの旅行のためにシンガポールを訪れた妻と二人で、北インドは、デリーとアグラを回る2泊4日の旅行に出かけた。

 インド旅行は、我々にとっては古い因縁のある課題だった。かつてロンドンに滞在していた頃、デリー、アグラ、ジャイプールという「北インド・ゴールデン・トライアングル」を回る一週間の旅行を予約していたが、その旅行のタイミングで帰国するという内示が出たために、泣く泣く予約をキャンセルし、数泊のヴェニス旅行に変更した。日本への帰国後、丁度子供が出来るような年代であったこともあり、その時妻とは、将来子供が育って、また二人で旅行が出来るようになったらインドに来よう、という約束をした。それが1987年年末のことであるので、それから25年が経ち、ようやくこの時の約束を、短い期間の旅行ではあるが実行したという訳である。しかし、その間インドはどう変わったのだろうか?

 80年代後半のインドはまさに危機の時代であった。戦後、あるいはパキスタンの分離独立後から常に緊張していた中国やパキスタンとの厳しい国際関係を受け、70年代からは核武装に傾斜したことから、経済は疲弊し、財政は悪化の一歩を辿る。丁度我々が前回の旅行を計画していた80年代末には、外貨準備が略なくなるという国家財政破綻の瀬戸際に追い詰められていたのである。更にそれに起因する社会不安を受けて、ヒンドゥー原理主義も台頭し、この「世界最大の民主主義国」は、政治的にも厳しい時代を迎える。

 こうした中で1991年、財務大臣であったモハンマン・シン(現首相)の強力な指導で、大幅な規制緩和と国内経済の外資への解放に舵を切ることになるが、その成果が出るには更に10年ほど待たねばならず、その間政権も、国民会議派が一旦下野し、ヒンドゥー原理主義政党が連立政権を率いることもあった。しかし、2000年代後半に入り、1991年の改革の効果が次第に浸透してきたことにより、ようやくインドは、外資にとっても真剣に資本投資を考えることができる国になっていった。また従来から強力であったタタやビルラに、新興勢力であるリライアンス等も加わった財閥グループは、資本投下型の製造業から始まり、得意の数学や英語能力を駆使したIT・情報コンサル会社など、多様な産業を買収・育成しながら、益々巨大化していった。私の仕事の関係では、特に私がシンガポールに着任した2008年当時が、ある意味でインドの経済成長に最も期待感が高まった時期で、日本でも「インド株ファンド」に結構な資金が流れ込んでいた。そしてその後も、欧米の経済危機もあり、勢いは弱まったとはいえ、それなりに着実な成長を遂げているように見える。そして個人的には、今回の旅行は、シンガポール着任前の2006年頃だったと思うが、日本からムンバイに出張し、2泊程して以来のインド行きであり、また北インドは初めての訪問となる。商業の街ムンバイと首都デリー等で違いはあるにしても、前回の滞在から約7年、インドは変わったのだろうか?今回の観光のハイライトであるタジ・マハールに加え、こうしたインド社会の現状を肌で感じておきたいというのも、今回の旅行の大きな楽しみであった。

2月10日(日)
 
 旧正月4連休の2日目、9時15分発のインド航空に乗るため7時にタクシーを呼んだが、丁度前日の夜中に新年を祝う花火が打ち上げられたりと、タクシー運転手も忙しかったのだろう、全く電話に反応せず、結局36番のバスに荷物を抱えて乗りこむことになった。しかし、道路もガラガラであったことから、8時前にはチャンギ空港に到着し、こちらも休暇2日目ということからであろう、空いているカウンターで、短時間でチェックインを済ますことが出来た。

 定刻の9時15分にインド航空381便は出発。インド航空に乗るのは初めてであるが、機内サービスは、食事(オムレツと菜食主義者用の野菜カレーの選択)も、映画・オーディオ・サービスも今一である。しかし日中の便なので、つまらない洋画の画面だけ流しながら、読書やうたた寝で時間を過ごし、現地時間午後1時前にデリー空港に到着した。シンガポール・デリーの時差は2時間半なので、6時間ちょっとのフライトである。しかし、予想に反しデリー空港はたいへん奇麗で、外人向けパスポート・コントロールも短時間で通過し、出口で我々の名前を入れた看板を持っていたガイドと簡単に合流することができた。

 空港に迎えに来た現地ガイドは、インド人とは思えないような中国系のような男性であったが、れっきとしたインド人ということで、インド人の人種の多様さをまず感じることになった。しかし、彼はホテルの送りだけで、その後は別のガイドと替わるという。トヨタ車を運転する運転手は、ハリーシュさんという、こちらは如何にもインド人という感じの男性。彼には、その後、最後の空港の送りまで、全行程を付き合ってもらうことになった。

 着陸前の機内アナウンスで、デリーの気温は摂氏15度、と紹介されていた。一瞬15度という気温がイメージできなかったのだが、確かに日射しがあたる場所は乾燥して丁度心地良い気温であるが、日陰は寒いくらいの気温である。長袖をもってこなかったことに気がついたが、時既に遅く、その後、熱帯暮らしの私は、この地での朝晩の寒さに苦しめられることになる。

 午後2時前に、この日の宿である「Hilton Garden Inn / Delhi」にチェックイン。取り敢えず、日曜日のこの時間は市内の渋滞はあまりないようである。ホテルは、都市型ビジネス・ホテルという感じで、あまり特徴はないが小奇麗なホテルである。近代的なオフィス・ビルもあるきれいに計画された一角に位置し、大きなショッピング・センターに隣接している。ホテルに入る際のセキュリティーは、今まで訪れたアジアのどこよりも厳重であるが、これは2009年のムンバイ・テロ以降強化された結果であるということである。

 簡単に荷物だけ整理して、直ぐにこの日の観光に出かけた。まずはオールド・デリーにあるインド最大のモスクである「ジャマ・マスジッド」。車は運転手のハリーシュさんだけで、ガイドはモスクで待っているという。ホテルは英国人が作った街であるニュー・デリーにあり、車はインド門等を見わたせる中心街や高級住宅や大使館等が並ぶ地域を経て、最初に都市が形成されたオールド・デリーに入っていく。するといっきに景観が変わってくる。道も整備が悪く、交通の流れも無秩序の度合いが高くなっていく。極めつけは、サンデー・マーケットで、立ち並ぶ即席屋台や地面に並べた品物の周辺に、とんでもない数の人々が溢れている。彼らは歩道も道路もお構いなしにうろつき、そして車はそうした人の群れに突っ込んでいく。乗っている我々が心配するくらい、車と人々が交錯する。しかし、そこは運転手もプロ。人波をかき分け、モスクの前の小さな駐車場に到着すると、そこで別のインド人のガイドが待っていた。

(オールド・デリーの喧騒)



(ジャマ・マスジッド:午後3時20分―3時50分)

 車を降り、彼の案内で、モスクの階段を上がるが、ここはカメラ一台の持ち込みに300ルピー(旅行前に、シンガポールのインド人両替商が集まっているチェンジ・アレイ、と呼ばれている、最もレートの良い地域の店で、S$150=6,300ルピーであったので、1ルピー=約1.8円程度である)が必要である。1658年に完成したインド最大のモスクで、英国植民地支配下での反乱の拠点となる等、インド近・現代史を刻んでいるという。靴を脱いで階段を上がり、入口をくぐると、大きな広場が広がっている。そこから見て右側に聳えるのが、3つの玉ねぎ屋根と両側に二本の尖塔を有するメインのモスクで、赤い石と大理石がコントラストをなしている。しかし、シンガポールやブルネイのモスクと異なり、建物の中には広間はなく、狭い回廊で祈りを捧げるようである。偶像崇拝禁止のモスクの常として、内装はいたってシンプルであまり見るべきものはない。やはりモスクは外から眺めているのが一番美しい。そのまま広場に戻り、広場を横切りモスクの反対側に向かう。小さな建物を潜ると、そこから先ほど通ってきたマーケットの喧騒を上から眺めることができる。このマーケットは、モスクの参道に広がったものであることが分かるが、兎に角すごい数の人々が蠢いている。さすがにその中に入っていく気にはならないので、そのまま来た道を戻り、モスクの外に出た。

(オールド・デリー散策―リックショウ:3時50分―4時20分)

 モスクから降りてくると、ガイドが自転車のリックショウを示し、これに乗ってこの周辺を一周してみないかと誘ってきた。歩いてこの地域をうろつくのはさすがに気合いがいるが、自転車とは言え、取り敢えず乗り物であれば、気楽に乗れるだろうと考え、200ルピーで自転車の後ろの小さな籠に二人で乗り込んだ。

 しかし走り出して間もなく、道端でサモサを揚げている屋台が眼に入った。機内で朝食(昼食?)を食べたきりで、シンガポール時間ではもう午後6時頃であり、小腹もすいてきたこともあり、それをちょっと摘まむことにした。油で揚げているので、インドで注意すべき食中毒のリスクは少ないだろう。取り敢えず違う種類のサモサを一つずつ注文したが、値段は一個10ルピーである。紙皿に入れたカレースープに付けて食べるが、一個18円という値段を考えると十分美味しいおやつであった。

(サモサの屋台)



 サモサを食べ終わって、リックショウに戻ろうとしたところ、老年の親父のリックショウがこちらに寄ってきた。すると横にいた若い男が、猛烈に文句を言い始めた。客を取り合っているのであるが、こちらは、その若い男が先ほど我々を乗せてきた男であるのかが自信が持てず、しばし二人の言い合いを眺めることになった。結果的には、やはりその若い方の男であったようで、そこから自転車のスピードで、狭い通りから大通り、そしてまた狭い通りに戻り、モスクの前まで戻ってきた。歩けない街ではないが、やはり明らかに外人観光客である我々が歩くと、いろいろなことが起こりそうな雰囲気である。そのまま再び車に乗り、帰り道は生きたニワトリを含め、肉屋やその他の食料品店が並んでいる地域の人波を抜けたのであった。

(リュックショウから見たオールド・デリー)



(ラージ・ガード:カンジー・メモリアル:16時40分―17時20分)

 インド、デリーと言えばマハトマ・ガンジーである。ガンジーについての私の知識は、今まで読んだインド本からのとおり一篇のもので、決してガンジー信奉者という訳ではないが、やはり彼の所縁の地は訪れておきたい。

 案内されたのは、広大な公園で、芝生ではインド人の家族連れがゆったりと過ごしている。通路を歩いていくと、正方形の記念碑の真ん中に火が焚かれている。ここはガンジーが火葬に付されたところで、その後彼を記念する「Eternal Flame」が設置されたという説明。しかし、カンジーの灰は、ガンジスを始め、国内の何箇所かに分散され撒かれたということで、ここに遺灰が眠っている訳ではない。その他の観光客に交じり短時間滞在して帰途につく。ここで気になったのは、この敷地内の広大な芝生のいたるところにゴミが散らばっていることである。この国の人々は、ガンジーが祭られている公園でピクニックをした後、きれいにして立ち去ろうという気持ちはないのだろうか、という思いが頭をかすめたのであった。

 プログラムでは、その後にもう1つ、ガンジー記念館が入っていたが、ガイドによると、時間的に閉館に間に合わないということであった。我々も、やや疲労も貯まってきたこともあり、一旦ホテルに戻ることにした。18時頃ホテルに戻り、ガイドと運転手に500ルピーずつのチップを渡した。運転手のハリーシュさんは、明朝列車でアグラに到着する我々を迎えるため、これから一足先にアグラまで移動するということである。

(夕食:Indo Grill:19時半―21時)

 部屋で一休みしてから、夕食に出かけた。まずはホテルに接続しているショッピング・センターを覗いてみる。近代的なショッピング・センターで、2階に大きなフード・コートと何件かのレストランが入っている。フード・コートも綺麗で、あまり不安はないが、既に多くの地元民で込み合っていたこと、及び個別のレストランは、恐らくここに来る地元の人々はインド料理を求めていないのだろう、洋食レストランやしゃれたバーばかりだったので、結局そのままホテルに戻り、そこの2階にある「Indo Grill」というレストラン・バーに落ち着くことになった。メニューには、「カレー」と名がつくものは一つしかなかったが、結局オーダーした鶏と羊肉の料理はどうみても「カレー」でしかも、とても美味であった。インド・ブランドのキングフィッシャー・ビールを飲みながら、最初の夜の夕食を済ませたのであった。ビール込みで値段はRP2,400。インドでの食事としてはやや高めの値段であったが、質を考えるとやむを得ないか。2時間半の時差分、長い1日であったことと、翌日は早朝の出発ということもあり、この日は早々に就寝した。

2月11日(月)

 朝4時半に起床。5時にチェックアウトし、迎えに来たまた別の若い男のガイドと共にデリー駅に向かった。さすがにこの時間、通りには人影もなく、車も少ないが、デリー駅に近づくと雰囲気が一変した。既にこの時間から、駅構内に入る入り口から、各方向から来た車やリックショウが突っ込み、弱肉強食の混乱状態。そこに、必ずしも旅行客だけとは思えないような人々の群れが行きかっている。割込み競争に勝利しようやく到着した駅舎の前で車を降りても、人だらけで、自分たちだけであると、どこに行けばよいのかは、全く分からない。ガイドを見失わないように駅舎に入っていくと、そこでも、とても旅行客とは思えないような人々が、そこここで眠っていたり、ボケっとしたりしている。取り敢えずガイドが乗車手続きを終えたようで、言われるまま、ある入り口の前にできた列に並ぶ。後ろには、一組小学生位の子ども連れの日本人家族もいる。そして小さなゲートをようやく潜ると、そこがプラットホームであった。時間は5時45分。しばらく待っていると、私の子どもの頃によく見たような旧式の機関車に先導された列車がホームに入ってきた。「シャタブディ・エクスプレス」と名付けられた「インドの新幹線」ということであるが、むしろレトロ好きに好まれそうな機関車である。ガイドの先導で、客車の中に入り、指定された席につくと、ガイドはそれを確認し降りていった。客車も、日本の新幹線などとは比べるまでもない旧式の座席であるが、しかし座り心地などは決して悪くはない。

(ニュー・デリー駅と列車)



 ほぼ定刻の6時に列車が出発したのは、予想していなかっただけに見事であった。外はまだ真っ暗で、明かりのない景色を見てもしょうがないので、ホテルで用意してくれたクロワッサンとジュースの朝食を食べていると、後ろの方から何やら配っている気配がしてきた。まずは紅茶のティーバックが入った小皿と熱湯の入っている真っ赤なポット。続いてコロッケ風のメインとパン。ポットには熱湯が入っていて、ティーバッグで紅茶が入れられるが、さすが紅茶の国ということで、ティーバックでも非常に濃い香りの紅茶を楽しむことが出来た。

(列車内での朝食)



 7時を過ぎるとさすがに外も明るくなり、車窓の景色が確認できるようになる。しかし、時折木立が立つ田舎の風景は、白い霧で覆われている。朝一番は、ホテルからそのまま車で駅に移動したので、寒さはあまり感じなかったが、アグラではまた寒さに苦しめられるのだろうか、等と考えていると、列車は都市部に入っていく。都市部とは言っても、線路の近所にあるのは、基本的に平屋の簡単な住居ばかりである。線路には簡単にアクセスできるし、手前の駅のホームの端では煮炊きをしている人々の姿も見えた。何とも長閑な早朝である。こして定刻8時に、列車はアグラ駅に到着し、多くの観光客が下車する。列車はまだ先に行くようであるが、アグラから先に行くのは、恐らく地元だけであろう。電車のステップを降りたところで、また別の男性ガイドに名前を呼ばれ、彼に車まで案内してもらう。アグラ駅も、デリーよりは小さいが、ガイドなしでは特定の場所に移動するのは難しそうである。駅前の車寄せも一般車とリュックショウが入り混じり、混乱の極みである。ガイドの案内で我々は、昨日運転し、昨晩一足先にアグラに入っていたハリーシュさんの運転するトヨタ車に乗り込むが、列車の同じ車両にいた東洋系の若い女が、リュックを身体の前に抱え、リックショウに乗ろうとしているのが目に付いた。なかなか果敢なバグパッカーである。

 朝早いが、既にホテルのチェックインが出来るということで、この日のホテルである「ITCムガール」へ向かう。20分程でホテルに到着すると、これがなかなか素晴らしいホテルであった。花に飾られた回廊から豪華なロビーに入ると、若いインド美人の女性クラークが部屋まで案内してくれる。部屋も落ち着いた作りで、中庭やプールも昨晩の都市型ホテルとは異なるゆったりしたリゾート型の構造である。そこでしばらくゆっくりした後、午前10時にホテルを出発。今回の旅行のメイン・イベントである「タジ・マハール」へ向かった。アグラの観光ガイドはディナという、やや小太りの一児の母親である女性。自分で「ディーと呼んでくれ」ということだったので、その後は、その簡単な呼び名で通すことになった。

(ITCムガール入口)



(タジ・マハール:10時30分―12時10分)

 言うまでもなく、インド・ムガール王朝を代表する大理石で覆われた巨大な墓で、今回の旅の主要目標である。17世紀半ば、熱愛した妃が死んだことを悲しんだムガール第5代皇帝シャー・ジャハーンが建設を命じ、22年の歳月をかけて建設された。完成は1653年ということである。

 まず一般の車が入れるのは、入口から500メートル手前までで、ここで入場チケットを買った上で、やや大きめのリックショウといった感じのトラムに乗り換え、宮殿の入口に辿りつく。持ち込み制限が多く(水や煙草、ライター等は禁止項目)、さすがに安全チェックや警戒も厳重なので、カメラだけ持って、その他は車に残してきている。

 入口の、こちらは昨日訪問したモスクの門と同じような作りの赤石で造られた正門をくぐると、既に広大な庭園の彼方に聳えるこの歴史的建造物が眺められる。4本の尖塔をもった真っ白な建造物が、快晴の空から降り注ぐ日射しを受けて輝いている。両側には、入口と同様に赤石で造られた2つの大きな建物が建っているが、この内向かって左側はモスクであるという。朝の時間が早いせいか、思っていたほどの人出にはなっていない。インドの小学生の見学であろうか、20人位の制服を着た小さい子供たちが、記念写真を取りながら、我々に声をかけてくる。長閑な観光地である。誇大な庭園の、建物が近くに眺められる場所で、ディーが、この世界遺産の解説を始める。皇帝とその妃の関係から、建設過程、石の由来や移送方法等々。最初の頃は真面目に聞いていたが、やや長くなってきたので退屈し始めた頃、建物本体に向かって歩き始めていった。

(正門)



(タジ・マハール)





 建物は、庭園の高さから一段上がった土台に建てられている。そこに上がるところで、入口で渡されたビニールの靴カバーをしなければならない。地元の参観者は、ほとんどが裸足である。ただこの季節はまだ気温が低いので大丈夫であるが、これから夏場になり、気温が40度を越えてくると、大理石は大変な熱を持ち、裸足ではとても歩ける状態ではなくなるということである。しかし、そんな気候であれば、大理石の上を歩く前に、この庭園を歩くだけでもへたばってしまうのではないかという気がする。後刻、運転手のハリーシュさんと話していたら、彼は冬場の6カ月は休みなく働き、夏場の6カ月は仕事がないので、ゆっくり休むと言っていた。さすがの世界遺産も、そうした酷暑の夏場は、訪れる人も少なくなるのであろう。

 建物は、傍で見ると、その大理石の壁に多くのカラフルな石が埋め込まれ、それがデザインになっていることが分かる。大理石はきれいに磨かれているが、このメンテナンスが如何に大変であるかということは、その後訪れた別の場所で、大理石の壁が汚れて黒くなっていたことでも明らかである。

 建物の内部では、大理石を使った彫刻で囲まれた壁の向こうに、皇帝の愛した妃の棺が置かれているのを眺めることができる。しかし、本当の棺は、その同じ場所の地下に収められているということである。

 建物の裏側に出ると、建物の横をゆったりと流れるヤムナー川を眺めることができる。丁度対岸に、きれいに整備された庭園があるが、伝説では皇帝ジャハーンは、ここに黒大理石の宮殿を建て、対岸と橋をかけ、死後王妃と結ばれることを計画したというが、実際はタジ・マハールの建設で国富を浪費したため、ジャハーンは自分の息子に幽閉され、死後は妃の横に葬られたという。それもこの建物の地下に眠っているのだろう。

(ヤムナー川)



(参拝に訪れていたサリーで正装したインド人母娘)



 こうしてヤムナー川を臨む、建物後方のテラスでガイドと別れ、20分程勝手に周辺をうろうろした後、再び庭園内でガイドと合流し、来た道を戻っていった。気候も穏やかで、最高の世界遺産鑑賞の時間であった。

(参道を徘徊する聖なる牛様)



 車に戻ると、ガイドが、昼食前に大理石の彫刻等を売る店に案内するがどうか、と聞いてきた。お決まりのキックバック・スタイルであるが、折角なので、とある工房に立ち寄ることになった。タジ・マハールにもあった、大理石に色のついた石を埋め込んでデザインを作る職人の作業を短時間眺めた後、売り込みが始まる。直径40センチ位のテーブルが値段的にも手頃だったので、いつものようにディスカウント交渉を楽しんだ後、S$370程度で決着し購入した。

(昼食:12時―13時)

 昼食はツアーには含まれていないが、朝食はホテルの朝食ボックスと列車内での朝食の二つを食べたので、あまりお腹は空いていない。昨日同様、簡単なサモサでも食べようかということで、ガイドに適当な店を探してもらった。広い道沿いのカジュアルなカフェ・レストランの店先で、サモサの屋台がある店は決まったものの、揚げたてのサモサと一緒にビールを飲みたいと思うが、その店ではビールはないという。そこで再び車に乗り、ハリーシュさんにビールを買える店を探してもらう。立ち寄った「ワインショップ」一件目ではウイスキーやスピリッツのみで、二件目でようやくビールを調達し、再び先ほどのサモサ屋台に戻ることになった。三種類程のサモサを調達したが、値段は100ルピー(180円)と格安。ビール2本(大缶)の180ルピーの方が高いが、ガイドはビールをナプキンで覆うようにということであった。彼女によると、ヒンドゥーでは、モスレムのようにアルコールが禁止されている訳ではないが、それでも酒を公の場で飲むということはあまりなく、ましてや我々のように公道沿いのカフェ・レストランでまっ昼間からビールを飲むというのは極めて珍しい行為であるという。もしかしたら、ヒンドゥー至上主義者にでも見つかって面倒なことになるのを避けたいということであったのかもしれない。しかし、ここでもカレースープに浸しながら食べる各種サモサは適当な昼食であった。

(昼食をとったサモサ屋)



(アグラ城:13時10分―14時30分)

 昼食後、アグラ城(Agra Fort)に向かう。有名なアクバル帝により1565年に建設された宮殿・要塞であり、西欧や日本の城と同様、お堀(今は水は抜かれている)で囲まれた高い城壁に作られた門から中に入ると、数々の居所が現われることになる。タジ・マハールが、ヤムナー川の向こうに眺められるが、ジャハーンが幽閉されていたのも、この側面の一番奥にあるタジ・マハールを眺められる一室(「囚われの塔」と呼ばれている)である。

(アグラ城)



 その他の建物を含め、小一時間この城で過ごしてからホテルに向かった。帰途紅茶ショップに立ち寄り、土産用紅茶を若干調達してから午後3時半頃いったんホテルに戻り、朝が早かったこともあり、少しゆっくりした。

 ネットで、このホテルからタジ・マハールを眺められる展望テラスがある、という情報を得ていたので、休息後ホテルの係員に聞くと、我々の泊っている新館ではない、旧館の屋上にそれがあるということで、そこに行ってみた。確かに夕闇が迫る中、やや霞んでいるがタジ・マハールの玉ねぎ屋根が展望できる。夕陽がまさにカジ・マハールに向かって左側に沈んでいくところで、場合によっては照明が灯ることもあるかと思い、しばらく待ってみたが、そのまま闇に沈んでいったので、ロビーに戻って、ホテルのレストランが開く7時までバーでカクテルを飲むことにした。

(夕食:18時10分―21時)

 すると、展望テラスで一緒だった米国人の中年カップルが遅れて降りてきて、我々の隣の席でやはり酒を飲み始めた。話しをしてみると、彼らはオクラホマ出身で、女性は上海で語学教師をしているとのことで、夫と友人二人でインドに入ってきたという。何気なく夕食の予定を聞くと、ホテルを出た直ぐのところにガイドが奨めたレストランがあるということで、それならば、我々もそこを試してみようということになった。

 友人を待つという彼らに断って、我々は先にバーを出て、その店を探すと、まさにホテルの向かい、通りを渡ったところに「Pinch of Spice」という小奇麗なレストランがあり、外人客中心に賑わっていた。ここなら大丈夫だろうということで、30分程待ち、席に着いた。メニューは結果的に昨日と同じようなカレーになったが、やはり昨日同様、コクのあるカレーで、料金もキングフィッシャー・ビール込みでRP1,400と、大満足であった。遅れて入ってきた先ほどの米国人グループを残し、9時過ぎにホテルに戻り熟睡した。

2月12日(火)

 最終日である。この日はアグラで午前中最後の観光をした後、車でデリーに戻り、深夜12時のフライトでシンガポールに戻るという、ややハードな1日である。ブッフェの朝食を駆け込み、チェックアウトして8時に、昨日と同じディーのガイドでホテルを出発した。

 車は直ぐにアグラの街を出るが、通り沿い至る所に街があり、平日の朝ではあるものの、働き盛りの年代の男たちが屋台の周りなどで所在なげにぼんやりと座っている。荷物を運んでいるのは、ほとんどがサリーを着た女たちであるが、その中で若いと思われる女たちは顔もサリーで覆っている。おそらく街を離れると、街の雰囲気は益々保守的になるのであろう。1時間程走ると、午前中の観光地であるファテープル・シークリーに到着した(アグラの南西39キロにある)。空は薄い日射しが射し、暑くもなく、寒くもなく、半袖での観光には丁度良い気候である。

(ファテープル・シークリー:9時10分―10時00分)

 やはりムガール帝国の第3代皇帝アクバルが建設した城跡で、これも世界遺産になっているという。但し、タジ・マハールと異なり、こちらは観光客がほとんど居ず、ゆっくり眺められることから、我々にとっては大歓迎である。アグラ城と同様、広大な石造りの敷地の中に、いくつもの建物が建っている。一時期都をアグラからこの地に移したことで建設された城であるが、水不足という原因によりわずか14年で捨てられたというから、アクバルも全く移り気な浪費家であったと言わざるを得ない。前日アグラ城ですれ違った日本人の親子と思われる3人組にもまた遭遇することになった。

(ファテーブル・シークリー)




 
(土産物屋:10時00分―10時30分)

 城から降りてきてから僅かに車で移動したところに、この観光地の小さな土産屋街があった。今回は石細工屋に入り、我々好みの丸い格子目のランプに狙いを定めた。またいつもの値引き交渉の末、ランプに石造りの像(中にもう一頭の象がいる)を付けてS$50プラス500ルピーで決着した。その後近くにある小さな建物にあるラウンジで、紅茶とビスケットのおやつを食べてから、車で出発した。

(車での移動:10時30分―16時30分)

 これから一路デリーに向かうというが、車はアグラ市内には戻らないということなので、まずはアグラ在住のガイドのディーさんをどこかまで送らなければならない。すると30分程走ったところにある小さな町の中心と思われる場所で彼女は下車していった。公共交通機関があるようにも思えない場所だったので、どうやってアグラまで帰るのだろうかと一瞬心配したが、そこは地元民である。リックショウでもなんでも雇って帰るのであろう。そしてディーさんがいなくなり、運転手のハラーシュさんと3人になるが、それまではほとんど喋ることのなかったハラーシュさんが、突然たどたどしい英語でいろいろ案内を始めたのである。

 アグラ・デリー間は高速道路があり、ハラーシュさんが昨日来た時はこれを使い2時間程度で到着しているようであるが、帰途は途中での観光も兼ねて一般道で4−5時間かけて帰るとのこと。車は、街を抜け、田園地帯に入っていくと、至る所に水牛を見かけるようになる。言うまでもなく、ヒンドゥーでは牛は聖なる動物で、それまでも町のそこかしこを悠々と歩く姿に接していたが、農村の労働力には水牛を使っているようである。相変わらず、田舎町では、女性が顔を覆ったサリーを着て働き、男たちがダラダラしている光景が目につく。12時過ぎに、「ハレ・クリシュナ誕生の地」とされているマトゥーラという、やや大きな町並みの郊外を通過した後、街道沿いにある大きなモスクの前で、小休止するが、モスクに入るという感じでもないので、外から眺めるだけで出発。続いて、ハラーシュさんが「お昼は?」と聞くので、トイレ休息も兼ねて、「それでは適当なところで」と返すと、すぐ先にあったレストランに入るが、そこは廃業していた。結局、その横のガソリン・スタンドでトイレを済ませ、お昼は、街道を少し行ったところに並んでいる、ローカルの小さな屋台街で探すことにした。しかし、昨日の夕食も、今朝の朝食もたっぷり食べているので、お腹は空いていない。結局、冷たい飲み物だけにして、午後2時前にそこを出発した。

(労働力である水牛)



(マトゥーラ郊外のモスク)



 次第にデリーの街が近づいてきている。3時頃、再度のトイレ休息で、大きなヒンドゥー寺院の前で止まる。これは新しいりっぱな寺院であったが、残念ながら入場はクローズされていた。そしてそこからデリーの中心街までは、あと一息である。広い公園の横で、突然多くの人並みが街道に沿って歩いているところに出くわしたが、ハリーシュさんによると、大きなフェアが行われているということで、確かに多くの屋台と共に、小さな観覧車のような移動遊園地の乗り物が眺められた。ウイークデイの午後4時過ぎであるが、正面入り口前は人と車で混乱状態となっており、ここを抜けるのに、若干時間を要することになった。

(ヒンドゥー寺院)



(ガンジー記念館:16時30分―17時10分)

 デリー中心街に入り、昨日時間がなくて見られなかったガンジー記念館に向かう。午後5時閉館ということであるが、何とか4時半に滑り込んだ。入り口に大きなガンジーの銅像があるが、まずは閉館時間も近いので、建物の中に入る。まあ、これはよほどのガンジー・フリークでないと、時間をかけて見て回ろうという感じではない。また、外は夕刻になり、薄曇りで気持ちよい気候でもあるので、建物の背後にある綺麗に整備された公園を散策する。ここには、道に足跡が刻まれており、それが小さな櫓の前で終わるが、そこが、ガンジーが暗殺された場所であるという。訪れる人がまったく疎らであるのは、ウイークデイの夕方閉館真近かということだからであろうか?

(ガンジー記念館とガンジー像)





(ショッピング・センター:17時20分―17時50分)

 帰国前、最後の夕食は、2年程前に、交換留学制度で日本に滞在し、我が家に二週間ほど宿泊していった、デリー在住の、当時高校生であった女性とその家族と夕食をとることになっていた。デリーに戻ってきたところから、待ち合わせ場所については、電話で、彼女又は母親とハリーシュさんとで、直接ヒンドゥー語の電話で話しをしてもらっていたが、この時点ではまだレストランが開くには早いので、近所のショッピング・センターで待ち合わせるということであった。そこで連れてこられた「ショッピング・センター」は、小さな平屋の、しかししゃれた店が軒を連ねる、小さなブランド店街という感じの一画である。空軍基地の横、ということもあり、入口の警戒は厳重。また平屋の一つは、「空軍妻の会」等という看板が出ている建物もあった。そこで紅茶等を買いながら時間を潰してから、所定の時間に入口に戻ってくると、ハリーシュさんは、また待ち合わせ場所が変わった、という。そして、またそこから少し走り、大通りから小道を入ったところに案内されることになった。

(夕食:18時20分―20時20分)

 車を降りて、どこにレストランがあるのか、とキョロキョロしていると、直ぐに先方の母親と娘がやってきた。私は初対面であるが、日本で受け入れた時に、実はインドからの留学生であるが、我々と同じような外見の中国系の学生だった、ということを聞いていたので、東洋系の女性二人が近寄って生きた時に、直ぐ彼女たちであるということが分かった。車を止めていたのだろう、大柄で、しっかりした目鼻立ちの父親も少し遅れて到着。その娘と私の妻は久し振りの再会に、抱き合って喜んでいる。私も三人に初対面の挨拶をした後、皆で、我々の正面にあまり目立たずあった「Lazeez Affire」というレストランに入ったのだった。

 やや暗い照明のその店の2階に上がると、大きなバー・カウンターを囲むようにテーブルが並べられている。テーブルのセットがまだ出来ていないので、まずはソファー席で飲み物を、ということで、我々は躊躇せず、「キングフィッシャー・ビール」を頼んだのではあるが、彼ら三人は何も注文しない。テーブルに移ってから聞くと、彼らはモスレムやヒンドゥーではないがアルコールはほとんど飲まないという。そして彼らに、昨日、デリーの昼間にビールを探すのに苦労した、という話をすると、彼らも、ヒンドゥーの人々は一般的に飲まないと、昨日のガイドと同じ説明をしていた。外人も多く利用するこうしたレストランはもちろん問題なく飲めるが、彼らが何も飲まない横で我々がビールをガブ飲みするのも失礼なので、1,2日目の晩と異なり、この日は最初の一杯だけで、彼らが選択したコクのある各種カレーに舌鼓を打つこととなった。

 娘の日本留学時の思い出から、福建省出身の父親の家系と、山東省出身の母親の家系の話し、そして彼らの現在のインドでの暮らし等、会話を楽しんでいると、あっという間に予定の8時を過ぎてしまった。飛行機の出発は真夜中12時であるが、ハリーシュさんは、渋滞に備えて8時過ぎには出たいと言っていたのである。おそらくハリーシュさんが早く帰宅したい、ということなのだろうということで、食事代を払ってくれた彼らに別れを告げ、午後8時20分頃、空港に向かったのだった。

(帰国)

 予想通り、9時には空港に到着。一応空港では、現地旅行者のまた違うインド人が待っており、チェックインを手伝うというが、電車の駅と違ってデリーの空港はきれいで、混乱はない。簡単にチェックイン、通関を済ませ、時間を潰すことになった。残っていたルピーを使いきるような値段のカクテルでも飲んで行こう、ということにしたが、入ったターミナル・ビル内のバーは、最初はカクテル作りが帰宅したので作れない、と言ったり、またその後帰ってきたので大丈夫と言ったりといい加減で、挙句の果て出てきた2種類のカクテルもひどい味で、やや最後に興醒めすることになったのであった。深夜00時05分、インド航空380便は定刻にデリーを出発。長い1日の疲れで、あっと言う間に睡魔に襲われて寝込むと、翌朝シンガポール時間午前8時にチャンギ空港に到着したのであった。

(終わりに)

 今回の旅行に出る前に、インド発で新聞を騒がせた二つの事件があった。一つはカシミールでのパキスタンとの交戦。もう一つはデリー市内を走る公共バスの中での集団レープ事件。前者は、昔からの紛争地で、武器による交戦が発生し、双方で兵士2名ずつの死者が出たのである。また後者では、走行するバスの中で、運転手も協力した集団レープが行われ、被害女性は、動くバスから放り出された傷が原因で、昨年末、移送されたシンガポールの病院で亡くなることになった。これを受け、デリー市内では、犯人グループへの厳罰と政府による女性保護を求める大規模デモが発生し、一部が警察と衝突し、警察が催涙ガスや放水で規制を行う事態となった。

 言うまでもなく、パキスタンとの紛争は、2009年のムンバイでのテロを始めとする都市部での各種テロ事件を引き起こしており、今回のカシミールでの交戦も場合によってはこうした都市部での報復を招く懸念があった。また後者の事件は、同じ時期にパキスタンで発生した、女性が学校で学習する権利を主張していた女子高校生に対するイスラム過激派のテロと同様、この地域での女性の権利・地位の低さを象徴するものであったが、発生した場所がデリーであるだけに、こうしたデモに遭遇こともあり得るのではないかと思われた。

 結果的には、前者は、軍隊の高官レベルでの交渉で収拾が図られたようで、直ちにインドの他の場所での報復に繋がることはなく、また後者による都市部の混乱も、幸いにして我々の旅行中には遭遇することはなかった。

 ただ、車の中から眺めるインドの街はまだまだ成長途上で、私が今までに訪れた東南アジアの最後進国であるカンボジアやミャンマーと比較しても、都市開発や地方での人々の生活の双方で遅れているという印象であった。もちろんニュー・デリーの街はゆったり作られており、インド門から大使館やガンジー記念館に至る地域は、如何にも高級住宅地といった感じであるが、一旦オールド・デリーに足を踏み入れると、そこはブラリと散歩するという雰囲気ではない。以前ムンバイに出張した際、散歩をしようとしてホテルを出たとたんに子供に囲まれ、物や金をせびられたという経験こそ今回はなかったが、それでも東南アジア諸国でも見られる、信号で停まった車への物乞いは、現在の東南アジア諸国よりも圧倒的に数が多いように感じた。よく言われるように、中国の経済成長は労働投下型の産業が担ったため労働者レベルへの分配もそれなりに行われたのに対し、インドの経済成長は資本投下型の産業により行われたために、労働者レベルへの還元が限定的で財閥のみが肥満したということなのだろうか?そして中国と同様、この国はいかんせん12−3億人という膨大な人口を養っていかなければならないのである。

 私たちが最終日の夕食を一緒した中国系インド人家族は、娘を外国への交換留学に出せるような中間層の上位に属していると思われるが、むしろ一般の中間層はどの程度成長し、どんな生活をしているのかという、当初抱いていた関心は、短時間の観光旅行では確認しようがなかった。ただ、彼らと夕食を取っていた時に、以前タタ自動車が開発した日本円で20万円と言われた超低価格車の話しになった。私が、「あの車は街であまり見かけないけど、人気がないのか?」と質問したところ、父親が答えて言うには、「インド人は生活に余裕が出てきてバイクから車に買い替えようと思う時は、もっときちんとした車を買いたいと思うので、あの車はあまり人気がない」ということであった。東南アジアでもそうであるが、中間層の所得がある一定レベル(通常2000米ドル辺りと言われている)を越えてくるといっきに資本財への消費に火が付くと言われている。世銀統計では、インドの一人当たりGDPは2011年で1410米ドルというので、この国の膨大な貧困層の存在を考えると、この平均水準は、それなりの購買力を持った中間層の存在を示しているような気がするが、それでも同じ統計で912米ドルのカンボジアや702米ドルのミャンマーと比較しても、この国が遅れているという印象はどこから出てくるのであろうか?それは恐らくは、絶対的な貧困層の人口の多さということなのであろうが、しかし他方でこの層は年齢が若いこともあり、経済がある一定水準を越えれば、この国がいっきに成長軌道に乗る契機となる可能性も持っている。よく言われる、高度な数学能力や巨大財閥の存在と、他方で引続き深刻な貧困と文盲率の高さという両極端が併存するインドという不思議。この国は、短い滞在で何かを知るには余りに大きく、且つ複雑である。

 いずれにしろ今回の旅行は、タジ・マハールを始めとする北インドの主要世界遺産を能天気に観光することが主目的であった。そしてそれは十分楽しむことができたが、他方で、この国の宗教的側面を含めた社会・文化的な経験にはあまり触れることができなかった。次にこの国を訪れる時は、こうした側面に触れることを考えながら、同時にこの国の変化を眺められることを期待したい。

2013年3月2日 記