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シンガポール通信
旅行
ボロブドゥール再訪
2015年7月17日−19日 
 モスレムの断食明け(Hari Raya Puasa)の三連休を利用した、昨年11月のアンコール訪問に続く、東南アジア世界遺産の妻との再訪第二弾は、まさに6年前の同じ時期に訪れたインドネシア、ボロブドゥールである。前回の単独での観光時と同じ旅行会社に、現地での日本語ガイドを含めたアレンジを依頼したが、当初のフライトは、初日の到着が遅く、最終日の帰国も早いことから、追加料金を払い2泊3日を有効に使えるようフライトを変更した。また宿泊は、前回初日に宿泊したボロブドゥール敷地内のホテルが取れず、2泊ともヨグヤカルタ市内ということになったが、前回2日目に宿泊した市内のホテルは、値段も高く、中心部から離れていたので、これもこちらで探し、予約だけ旅行会社に依頼する形にした。その結果、同じ2泊3日の滞在でも、前回と異なり自由時間もたっぷり取れ、また中心街に近いホテルを起点に、ゆったりとした休暇を過ごすことができたのであった。

7月17日(金)

 変更したフライトは、シンガポール、チャンギ空を朝8時10分に出発するシルク・エアー(MI152便)である。1時間時差で戻り、現地9時20分にヨグヤカルタ空港に到着する。6年前と変わらず、空港にゲートはなく、徒歩で小さなターミナル・ビルに向かうが、前回よりは整然としているものの、オンライン・ビザの窓口には乗客が殺到し、長蛇の列ができていた。

 インドネシアのオンライン・ビザについては、この旅行の直前の週末に、いつものようにプールサイドでのっぺりしながらネットを見ていたら、いままで「やるやる詐欺」と揶揄されていた日本人向けのビザが不要になる、という記事を見つけた。「これはラッキー」と喜んだが、その後旅行会社に確認したところ、日本人向けのビザが不要になるのは、ジャカルタ、スラバヤ、デンパサール、メダン、バタムの5か所からの入国のみで、ヨグヤカルタは対象外ということであった。ジャカルタやデンパサールは、もともと日本人のビジネス客や観光客が多い場所なので理解できるが、日本人客がほとんどいないスラバヤやメダンが対象となり、ヨグヤカルタは対象ではないのか、あるいはシンガポールからフェリーで渡れるインドネシア領のうち、なぜバタムは対象でビンタンは対象でないのか、全く理解不能な措置である。

 ということで、そもそも不愉快なインドネシアのビザであるが、30分近く列に並んで、一人35米ドル×二人を支払い、出口で待っていた小柄な日本語ガイドのイケ(Ike)さんと合流する。イケさんは、敬虔なモスレムの主婦で、この日はまさに一カ月の断食明けという重要な日であったが、家族でのお祝いは翌日に行うということで、我々の相手をしてくれた。学校で学んだという日本語は、前回この地を訪れた際の男性ガイドよりは上手で、何よりも、終始にこやかな表情が、気持ちが良い。車の中で彼女の紹介などを聞きながら、前回と訪問の順序を変え、まずは空港からそのままブランバナン寺院に向かい、10時半にはそこに到着する。

 以前の旅行記でも書いたが、プランバナン寺院は、ボロブドゥールと異なりヒンズー寺院である。ボロブドゥールと同じ8−9世紀に建立されたが、度重なる地震で崩壊して常時修復が行われている。10世紀に一度文献に登場するが、現代に知られるようになったのは1733年に発見されてからであるという。前回訪問時に比べきれいなった入り口を抜けて中に入ると、暑い陽射しの中、外人観光客だけでなく、インドネシア人と思われる訪問客で、既に結構な人出である。広大な構内では、まずは前回同様、まだ修復が終わっていない瓦礫がここかしこに堆積しているのが目につく。しかし、前回は、この遺跡群の最大の建物が再建中で入場が制限されていたのに対し、今回はその修復が終わり、入場することができた。建物の中には、シバやヴィシュヌといったヒンドゥの神々や聖なる動物である牛の像が置かれている。前回は30分位で早々に引き上げたが、今回は1時間ほどかけ、ゆっくりとそれぞれの建物を見て回った。

 昼過ぎにそこを出て、昼食場所へ向かうが、途中で「ジャコウ猫コーヒー」の話しになり、その店に寄ることになった。このジャワ特産のコーヒーは、ジャコウ猫というこの地独特の野生猫の腸内で発酵したコーヒー豆である。このジャコウ猫は、各種フルーツが好物で、コーヒーの実も丸ごと飲み込んで食べる。しかし種は腸内で消化されず、一定期間腸内で発酵し、排泄物と共に対外に出されるので、それを採取し、丁寧に洗い皮を剥いてから焙煎して作られるという。言わば動物の体内でいったん発酵したコーヒー豆ということになる。実際のジャコウ猫も、檻に入れられ飼育されていたが、丁度狐のような雰囲気の野生猫である。コーヒーを試飲したところ、まあ確かに普通のコーヒーよりは気持ちさっぱりしていて美味しいかな、という程度であったが、親父の「日本で飲むと一杯数千円」というセリフに感化されたというよりも、製法が変わっているので話のネタになるな、という乗りで、2000ルピアで小さなパックを購入した。因みに、インドネシア・ルピアは、ここのところの資源関連東南アジア通貨安につられて安値を更新しているが、出発前、近所の両替屋で換算したところ、108円=Rp1程度で、ここ数年の円安もあり、対円では6年前の100円=Rp1からそれ程変わっている訳ではない。

 ジャコウ猫コーヒーの店を後にして昼食に向かう。到着したシェラトン・ホテルは、景色に見覚えがあったことで、前回の訪問時に市内で宿泊したホテルであることが分かった。その時は、午後の到着時直後に、水がやや濁ったプールで泳いだ位で、夕食も外のお任せレストランに連れて行ってもらい、また翌朝も朝6時前に空港に向かい出発してしまったために、ホテル内で何かをしたという記憶は全くないが、ホテルとしてはなかなか高級感がある。いかにもという雰囲気のレストランで、パックに含まれているスープと鶏肉メインの食事と別にビールを頼んだが、そのやや高いビールを巡り、その後苦労するとは、その時は考えていなかった。客が、地元の家族と、西洋人カップルだけという閑散としたそのレストランでゆっくり食事を済ませ、宿泊ホテルであるフェニックス・ホテル(The Phoenix Hotel)に移動し、イケさんと別れた。

 宿泊ホテルは、シェラトンほど近代的な高級ホテルではないが、いかにもオランダ植民地時代の建築物といった趣がある。チェックイン後しばらくゆっくりしてから、4時半頃、町の中に出ることにした。ホテルのカウンターにあった生姜キャンディーを頬張りながら、中心街のマリオボロ通りへ向かうべく、ホテル前でたむろしている二人乗りの籠をバイクが押す形の乗り物の運転手と値段交渉をする。この「ベチャ」と呼ばれる交通手段は、その後ホテルと中心街の移動で多用することになったが、最初に乗ったバイクで押すものは主流ではなく、多くは自転車による人力である。中心街まで片道2万ルピーと、一瞬ぎょっとするが、考えてみると200円弱である。のんびりと町のライドを楽しみながら、10分程度で、人で溢れるマリオボロ通りに着き、そこの大きなショッピング・センター(SC)前で下車した。

 そのSCで、まずはジャワティー等、土産になるような品と、部屋で飲むビールを探したのだが、双方とも簡単に見つからない。特にビールは全く売っている気配がない。しょうがないので、SCから出て、次に恒例のマッサージ屋を探した。まずはマリオボロ通りに沿って歩くが、マサージのマの字もない感じなので、その後は路地に入りうろうろした結果、何件かそれらしき店を見つけ、そのうちの一軒で、45分のボディ・マッサージを受けることにした。一人15万ルピーと、期待したほど安くはないが、6年前にガイドが案内した「Javanese Full Massage」というオイル・マッサージが75分、19万ルピーだったので、その後のインフレなども考慮すると、そんなものか、という感じ。今回はオイルを使わないタイ式のボディ・マッサージであったが、まあまあの腕であった。

 その後、同じ路地で、夕食のレストランを探す。既に多くの店に人が入っており、また路上の屋台も繁盛している。我々は、まずビールが飲める場所を探したのだが、これが全くない。何件か回ったところで結局ビールは諦め、一軒の繁盛しているワルンに落ち着いた。相席は白人の若者と華人っぽい女性であったが、実は若者は一人で、女性は別の席の男性と一緒のインドネシア人で、ジャカルタから観光で来たとのことであった。ナシゴレン等を食べながら彼女に、ビールが飲めない、という話をすると、別の路地にビールが飲める店があるということを教えてくれた。食後、道端で焼いているサテ(10本、5000ルピー)をつまみながらそこを探しに行くと、少し迷った後で、「ビンタン・ビール」の看板と共に、確かに客がビールを飲んでいる店を見つけた。しかし、一杯で席がなかったことから、ビンタン・ビールの大瓶を2本買って、またベチャに乗って9時前にホテルに戻った。ホテルで、ビールが買えなかったことを話すと、「半年ほど前に法律が変わって、普通の店では売れなくなった」ということであった。昼食時のシェラトン・ホテルでは飲めたのであるが、考えてみれば値段は高かった。恐らく外人向けのホテルにのみ特別なライセンスを発行しているのだろうが、当然その分の税金は要求するので値段は高くなる、ということなのだろう。確かに、この日ビールを買った店も、ホテルのレストランという感じであった。ただこの「アルコール禁止令」が、全国ベースのものなのか、あるいはこの地域だけのものであるかは分からなかった。

7月18日(土)

 朝食ブッフェを食べ、ホテルのプールサイドなどでゆっくり時間を過ごしてから、9時に迎えに来たガイドと共にボロブドゥールに向かい出発した。今日のガイドは、昨日と替り男性のイワン(Iwan)さん。キリスト教徒なので、ラマダン等のモスレムの行事は関係ないということである。渋滞等もあり、ボロブドゥール地域までは約1時間半かかったが、まず立ち寄ったのは、前回も訪れたムンドゥという仏教寺院。前回同様、階段を上ったところにある唯一の空間にある石仏三尊像にお線香を上げてお祈りをした。寺院の脇に聳える大きなガジョマロの木は以前のままであったが、そこからたれた枝で、子供たちがターザンごっこをしている姿は、今回は見られなかった。20分くらい滞在した後そこを出発し、横にあるパオン寺院という、もっと小振りの寺院を短時間見た後、ボロブドゥールに移動した。

 プランバナン寺院と同様、ボロブドゥールも、前回訪れた印象と異なり、整備された正門からの入場である。おそらく、前回は敷地内にあるマノハラ(Manohara)ホテルから入ったので、裏から入ったのではないかという気もする。この日も陽射しは強くなっているが空気が乾燥しているので、時折流れる風が心地よい。

 この寺院について前回も書いたガイドブックの解説を繰り返すと、この遺跡は8−9世紀に当地を支配していた仏教勢力が50年以上かけて建設したが、完成直後に、理由は不明であるが捨てられ、その後、1814年にイギリス人のラッフルズにより発見されるまで、灰に埋もれていたという。埋もれた理由は、付近にあるメラビ山の噴火で埋もれたという説と、ヒンドゥに圧された仏教勢力が逃げる際に、意図的に埋めたという説の二つあることを今回知ったが、後者は、それほどの手間をかける余裕などなかったのではないかと思われるので、個人的には前者の理由によると考えている。灰を取り除いた後も毀損が激しく、結局ユネスコの支援を受け修復が終わったのは、スハルト時代の1983年。3層6階建ての構造になっており、第1層は4段からなる回廊で、そこに仏陀の母親マーヤが白い像が体内に入る夢をみて仏陀を身ごもったといった、仏陀の生涯や仏典を素材とする多くのレリーフが刻まれている。レリーフの一部に、クリアーなものは残っているが、多くは一部が既存したり、あるいは石の切れ目でレリーフがズレていたりする。アンコールもそうであったが、当初の建築自体、たいへんな驚異ではあるが、現代のこの巨大なモザイクの再建―膨大なジグソウの組立―も、それは気が遠くなる作業であったことは容易に想像できる。  

 前回と異なり、入り口から既にたいへんな人出である。イワンさんが言うには、断食明けのお祈りを兼ねて訪れる地元やジャカルタなどからのインドネシア人観光客も多いというので、いわば日本の初詣に来てしまったということだろうか。しかし前回も同じ時期に来たのだが、これほどの人出は記憶にない。低層部から上層部に至る、カーラ(鬼面の守護神)が見下ろす急な階段も、結構混雑している。それを昇った、卒塔婆(ストゥーバ)が林立する第2層が、やはりこの寺院のメインであるが、そこも大変な混雑である。中央の巨大な卒塔婆が第3層であり、ここには何も飾られておらず、悟りの境地を象徴する「空」を表しているというが、前回同様そこは立ち入り禁止で見ることはできない。また寝仏を想像するという丘はよく見えるが、既に気温が上がり、空気が霞んできているため、メラビ山を望むことは出来なかった。混み合っている第二層を、人を掻き分けながら一周し、多くの卒塔婆と、椰子を中心としたジャングルが広がっている光景を堪能してから、下に下りていった。前回同様、裏側の寺院全体を望める地点で写真を撮った後、来た道とは違う道をとおり、入り口に戻った。結局ボロブドゥールにいたのは1時間ほどであった。

 朝来た道は渋滞が予想されるということで、帰り道は、稲畑が広がる田舎道を抜けて、市内に戻ったが、それでも結構時間がかかってしまった。午後1時半頃、市内に入ったところで、前回同様銀細工の店に案内される。かつて、案内された店とは違う店であったが、売っているのは、前回同様、日本の現天皇夫妻が訪問し、それを記念した「美智子ブローチ」などである。もちろんさっと眺めただけで、何も買わず、そのままガイドには、マリオボロ通りまで行くよう指示する。午後2時頃、マリオボロ通りで下車。今晩の夕食はパックに入っているので、ドーナツで軽く昼食をとって3時頃、ベチャに乗り、ホテルに戻った。

 5時半、迎えに来たイワンさんとホテル発。パックに入っている夕食で案内されたのは「Handayani Restaurant」という伝統的なインドネシア・レストランである。幹線道路脇にあるしゃれたレストランで、我々が入った6時過ぎは、まだ時間が早いせいか、客は疎らであったが、出る時間には、インドネシアの家族連れを中心に結構席が一杯になっていた。そこで、スープから始まり、サテや蒸した白身魚等のさっぱりとしたインドネシア料理を味わった。

 7時前にホテルを出てラーマーヤナ劇場に到着。これも料金がパックに含まれているイベントであるが、屋外劇場でのラーマーヤナに素材を取ったバレーという触れ込みで、既に町の至る所で、この公園の看板を目にしていたものである。ステージ越しに照明で浮かび上がったブランパナン寺院の3つの塔を眺めることができる、なかなか雰囲気の良い野外劇場である。日中の暑さも、夜になると和らぎ、心地よい気候である。

 ラーマーヤナ自体は、ヒンドゥの古典演劇で、演劇版は数夜に渡って演じられることもあるようだが、今回のバレーは、その主要ストーリーを舞踏仕立てにしたものである。7時半に開始され、照明が刻々と変わる中、舞踏が繰り広げられ、前半の最後は、戦争のクライマックスでステージ最後部の壁に一斉に火が放たれ、壁が焼け落ちるという演出であった。視覚的には、それなりに楽しめたが、最後まで見るほどまでではない、ということで、我々は前半が終了した9時の休憩で中座し、9時40分頃にホテル戻った。

9月19日(日)

 半日、自由時間の最終日である。前日同様、ゆっくり起きてブッフェの朝食をとった後、その日の観光と買い物のために、残り少なくなっていたルピアを調達しようとホテルのカウンターに両替を依頼した。ところが、思いがけず返ってきた答えは、数日前に法令が改変され、ホテルでの両替ができなくなった、という。これまた理由は不明であるが、それは町の両替屋でのみ可能であるが、ラマダン明けの休日ということで、開いている両替屋は余りないのではないか、という。観光地で両替施設がない、というのはいったい何たることかと呆れたものの、ルピア現金がないと、何も行動が出来ない。まずはホテルの隣にある現地銀行のATMで、シンガポールのクレジット・カ−ドでの現金引き出しを試みるが、パスワードでひっかかり失敗。しょうがないので、町の両替屋を試すしかないと考え、前日ベチャでホテルに戻る際に何件か両替屋の看板を見かけた通りを目指す。まず目に付いた店では、扉が開いていたので大丈夫かと思ったら、中にいる女性たちは掃除で来ているだけであり、両替のことは分からないと言う。そこで道を挟んだ反対側の店にいくと、そこは開いていて、ようやくルピア現金を手にすることができたのであった。

 ということで、一安心し、そこからマリオボロ通りの奥にある王宮まで、またベチャに乗り移動することになった。しかし訪れた王宮は、この土地の王が人々を謁見するオープン・スペースと代々の王様の肖像画が飾られている部屋があるくらいで、あまり面白くなかった。短時間で切り上げ、またマリオボロに向けて徒歩で移動。ホテルから来ると、通りの反対のはずれにある大きな土産物屋に立ち寄った。通り沿いには、「・・・Batik」という店が何軒も並んでいたが、この店も「Mirota Bakik」という名前で、言わばこれはバティクだけではなく、土産品も含めた何でも屋であることがようやく理解できた。そこで小物の土産を仕入れた後、またベチャに乗りいったんホテルに戻り、シャワーを浴びたところでちょうど12時となり、ホテルをチェックアウトした。

 まだ午後の出発までには時間があるので、荷物を預けて、再びベチャでマリオボロに出た。まずは、昨日と同じ店で、最後のマッサージ(Rp1000/1時間×2人)。そしてその向かいにあったカジュアル・ホテルのレストランで、軽く麺の昼食(Rp840)をとってからホテルに戻った。こうしてまったりと最後の時間が過ぎていったのであった。

午後3時15分に、ホテルに戻り、そこで待っていたイワンさんの車に乗る。空港までは約30分。イワンさんと別れ、チェックインした後、前回から変っていない、免税店も窓もない狭いゲートの待合室で出発を待つ。それでも定刻5時50分に、シルクエアー(MI153便)は出発し、予定通り午後9時にチャンギ空港へ到着した。シンガポールの連休の最終日ということもあり、到着したターミナル1のタクシー乗り場は長蛇の列が出来ていたが、空港の係員から、ターミナル3は空いている、という話を聞き、そちらに移動したら、確かに列は全くなく、順調に帰宅することになったのだった。

 今回の旅行中、最近のインドネシアにおける宗教、なかんずくモスレムの変化を描いた「新興大国インドネシアの宗教市場と政治」(著者:見市建。「アジア読書日記」に別掲。)を読み進めることになった。前述のとおり、今回の旅行では、二つ「あれっ」という事態に直面した。一つは、マリオボロ通りのスーパーマーケットなどで、ビールなどのアルコール類を探したが全く販売されておらず、一般の町のレストランでもアルコールは提供されていないということ。6年前にこの町を訪れた時は、それでも一般の夕食レストランでビールを飲みながら食事をした記憶があるが、前述のとおり、6カ月前に町の条例で、アルコールの販売が一段と制限されたということであり、今回はホテル内で高い価格のアルコールを飲むしか方法がなかった。もう一つの驚きは、ホテルでの両替が「2日前から」禁止されたにも拘わらず、街中に両替屋が少なく、残り少なくなったルピーの調達に奔走することになったこと。後者は宗教的要因とは考えにくいが、前者は、明らかにこの本で指摘されている「社会のイスラーム化」の具体的な表れなのではないかと感じたのである。他方、3日間で二人ついた地元のガイドについては、初日の主婦であるイケさんは敬虔なモスレムで、各種宗教儀式を欠かさないタイプであったのに対し、もうひとりの男性はカトリックで、当然ラマダンを始めとするイスラームの習慣には無頓着であり、この国の宗教的多様性を示していた。もともとジョコウィの出身地であるソロは、このユグジャカルタの近郊に位置し、彼はヨグヤカルタで一番のガジャマダ大学(Gadjah Mada University)の卒業生であるが、彼自身は宗教とは無縁の世俗的な出自の人間であるようだ。しかし、政治家に転身した後は、この本で書かれているとおり、彼の無宗教性がライバルからのネガティブキャンペーンの素材となったことから、殊更イスラームへの配慮を示さざるを得なかったという。スハルト時代に、イスラームが反政府的な運動の巣窟として危険視されていたことを考えると、民主化以降のこの国の宗教性の高まりは注目されるが、それだけ宗教的な土着性、なかんずくイスラームのそれは民衆の中に深く根を張っていたということであろう。そしてメディアの発達により、自由化された宗教は、世俗的なイベントなどを通じ、新しい形で拡大していっているという。

 「イスラームの規範が社会の隅々に浸透し、より敬虔あるいは保守的な人々が増えているように見える」のに対し、「全国的なレベルでは、既存の宗教組織や指導者の政治的動員に限界が見られ、こうした組織や指導者に頼るイスラーム諸政党が停滞している」という、この本で指摘された現象は、3日間の物見遊山では、ビールの一件を除いて実感することはできなかった。ただ国ベースでは世界最大のモスレム人口を抱えながら、国教としてモスレムを掲げることなく、宗教的寛容を標榜しているこの国の、微妙なバランスが確かに揺れているという雰囲気は感じることができた。足元、中国の経済成長鈍化と米国の利上げ観測を主因に、資源国を中心に、新興国から資本が逃避するという流れが強まっており、インドネシアも経済的にはやや厳しい局面にある。まもなく就任後1年(2014年10月20日就任)となる大統領ジャコウィが、ソロ市長、そしてジャカルタ市長時代にある程度実行した既得権益に食い込んだ改革が、国政ベースでできるかどうか、という点を含め、こののどかなアジアの原風景を感じるこの国も、ひとつの転機を迎えているという思いを抱いた小旅行であった。

2015年9月12日 記