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シンガポール通信
旅行
ホイアン滞在記
2016年5月20日ー22日 
 2月にフィリピンのセブ島で合流して以来の家族旅行。今回は妻と二人での観光中心の旅行である。

 ベトナムを訪れるのは、2009年11月に、ホーチミン市を一人旅で訪れて以来である。ベトナムへの関心については、この旅行記で既に記したが、そうした歴史の探索以上に、この時の旅行では、ベトナム料理の食べ易さと値段の安さが強い印象に残った。他方、観光という観点では、この旅行では、ベトコンが対米戦争で戦略的に使ったクチのトンネルに行ったくらいで、それこそ文化遺産と呼ばれるものには無縁であった。それに対し、ベトナム中部のホイアンは、8世紀から13世紀に、チャンバ王国というモスレム王朝が栄え、当時は日本からの朱印船が往来するなど、日本との交流の拠点になっていたが、その遺産が残り、その結果、マラッカ等と同様、旧市街全体が世界遺産に指定されている。そうしたベトナム文化の一端を味わおうというのが、今回の旅行の目的であった。

5月20日(金)

 シンガポール、チャンギ空港を、朝7時55分に出発するシルク・エアー(MI638便)で一路ダナンへ。3時間弱のフライト、1時間時差で戻り、現地10時前にダナン空港に到着。7年前、ホーチミンを訪ねた際は、オンランディングのヴィザを取った記憶があるが、現在は15日以内の滞在で、前回のベトナム訪問から31日を過ぎている場合は、ヴィザは不要となっている。入管もたいして混まず、手荷物のみの我々は直ぐに、出口で待っていたホテルからの迎えの車の運転手と合流した。気候は、シンガポールと比較しても暑いが、雨季も近いということで心配していた湿度はそれほど高くない。

 車はダナンの市外を抜けて、海岸に沿って南下する。海岸沿いは、多くのホテルが建っていたり、建造中であったりして、いかにもこの場所を海岸リゾートとして売り出そうという意図が感じられる。シンガポールの高級ホテル・チェーンである「バンヤンツリー」も最近ダナンに進出した、という記事を読んだ覚えがあるが、それもこの地域なのであろう。今回の旅行の計画時に、この界隈のこうしたホテルに宿泊するという案もあったが、こうしたリゾート型のホテルは、ホテルからのちょっとした移動にもタクシーなりが必要になってくる。我々は気楽に街に出たいタイプなので、今回は場所を優先し、ホイアン市内の小さなブティークホテルを予約している。

 50分程で、ホイアン市街に入り、11時前に予約している「River Suites Hoi An Hotel」に到着した。トゥボン川に面した小さなホテルで、レセプションの女性たちは、素朴な田舎娘といった感じであるが、たいへんフレンドリーで気持ち良い。まだ時間が早いので、チェックインが出来るかどうかを待つ間に、翌日以降の予定をチェックする。丁度ダナンからの道沿いに「Marble Mountain」という、平野の中に、いきなり地層が隆起した岩山が見え、観光ガイドブックにも紹介されていたので、帰りの空港に行く車で、そこに寄るアレンジを750,000ドンで行った。同時にホテルで初めてシンガポール・ドルをドンに替えたが、S$50=766,000ドンだったので、だいたい1円=200ドン、750,000ドンは約3,750円といった感じである。

 幸い、まだ12時前だったが、部屋の準備ができた、ということだったので、最上階である5階の「ペントハウス」に入る。ダブルベッドの横に、ソファがある程度で、広さはそれほどでもないが、冷房もきちんとした快適な部屋である。直ちに着替えをして、昼食兼街の散策に繰り出した。

 正午を過ぎ、外はたいへんな暑さである。間違いなくシンガポールよりも気温は高い。しかし、川沿いに5分も歩くと、もうそこはホイアン観光の中心である旧市街である。入り口で、声を掛けられたのは、町に入るチケットの購入。これが「義務」なのかどうかは釈然としなかったが、1セット120,000ドンのチケットに5枚綴りの券が付いており、これが旧市街の観光スポットの共通の入場券になる、即ち幾つかの観光スポットから5箇所を選んでこの券が使えるということであった。直ぐに、ホイアンについての日本のガイドブックでは真っ先に紹介されている「来遠橋」、別名「日本橋」が見えてきたが、まずは、口コミで評判のよかった「シン・ツーリスト」という現地の旅行エージェントの店を探した。

 10分程歩くと、その旅行エージェントが見つかった。街の他の店と同様、冷房もない、道路に向かって開かれている店の奥にカウンターがあるだけの、倉庫のような簡単な店舗である。まずは翌日のツアーの適当なものがないか確認する。ビーチに行くツアー等もあったが、我々はミーソンというチャンバ王国時代に建造されたヒンドゥ遺跡を訪れるツアーを申し込んだ。遺跡の後でボートで川を下る、という一日ツアーもあったが、我々はその遺跡だけの半日の行程。一人98,000ドン(約500円)ということであるが、事前に妻がネットを通じホテルでアレンジするツアーをチェックしたところ、1,000,000ドン(約5,000円)であったという。ケタ違いで間違いではないかと、何度も確認したが、間違いなかったということなので、恐らくそれが「通常料金」なのであろう。ネットの口コミで評価の高かった「シン・ツーリスト」恐るべし、である。

 取りあえず翌日の核となる予定ができたので、腹ごしらえに移る。旅行エージェントで、近所のお奨めレストランを聞いたところ、すぐ横に「有名店」があるというので、行ってみた。

 その「ホワイト・ローズ」という店は、確かに日本のガイドブックでも紹介されていた。それによると、「ホイアン三大名物」は、「ホワイト・ローズ(茹でワンタン)」、「揚げワンタン」、「カオ・ラウ(麺)」の三つであるが、この店はホイアン中にホワイト・ローズを提供している製造卸元であるという。旅行エージェントと同じように、冷房もない道に向かって開かれたレストランであるが、確かに奥で4人の女性が、手創りで大量のワンタンを作っている。12時を少し過ぎた時間であるが、店はガラガラなので、適当な席につき、まずはビールと、そして名物の「ホワイト・ローズ(茹でワンタン)」と「揚げワンタン」を注文。炎天下を歩いてきたこともあり、ローカル・ビールが喉に染み込む。そして「ホワイト・ローズ」と「揚げワンタン」。前者は、普通の具を包んだワンタンと、開いて花弁のようになっているワンタンの組み合わせである。開いたワンタンがバラのようだ、ということでこの名前となっている。そして揚げワンタンは、全く包まれておらず、挙げたワンタン地の上に具の入ったタレがかかっているというもの。どちらも薄味、さっぱりしていて、とても食べ易く、恰好のビールの摘みである。そして二人でビール大瓶を2本飲んで、料金は12,000ドン(約600円)。何とも快適な昼食であった。

 昼食を食べながら、既にホテル到着時にアレンジした、帰国時の「Marble Mountain」を経由し空港に行く車についても、シン・ツーリストでアレンジしたら安いのではないか、ということになり、食後にもう一度そこに立ち寄り、料金を聞く。予想通り、ホテルから、「Marble Mountain」での一時間半の観光を含めた空港までの料金は400,000ドンであるという。ホテルでのアレンジ料金の略半額である。ホテルでのアレンジは、まだ料金を払っていないので、その場で、担当の女性からホテルに電話してもらい、それをキャンセルしてもらう。ただ、電話の相手は要領を得ないので、帰ってから直接話をしようということになり、続けて、我々のいつもの行動であるマッサージ屋を探す。

 旅行エージェントでは、お昼を食べたレストランの隣にある、レストランと同名の、こじゃれたマッサージ店を薦められたが、値段が高かったので、ホテルに向かって歩き始めて、すぐに目についた何の変哲もない店に入ることにした。そこで、200,000/一人/一時間のボディー・マッサージをやる。タイやインドネシアでのそれに比べると値段はやや高めではあるが、妥当な値段である。担当した中年女性の腕は、まあまあ。確かに上手くはないが、一部オイルも使う、マレー系と同様のスタイルで、心地良い。うとうとしている内に、一時間はあっという間に過ぎてしまった。

 チェックインしてすぐにホテルを出たので、3時頃いったんホテルに戻り、空港までの車のキャンセルを交渉する。受付の女性は、「マネージャーの承認がいる」ということであったが、最終的には問題なく、しばらくホテルの部屋で冷房にあたりながらゆっくりした。

 5時頃に、またホテルを出る。今回の旅行をこのタイミングにしたのは、この地で、毎月一回満月の夜に盛大な「ランターン祭り」が行われていると聞いていたためである。日暮れが近づき、ホテルの窓から見える川岸に人が集まり始めている。お昼が軽かったこともあり、お腹も空いていたので、早めに軽く飲もうということで、既に昼間の暑さも和らぎ、涼しくなった街に出た。ホテルのすぐ横と、そこに掛った橋の対岸に広い駐車スペースがあり、そこに続々と観光バスが乗りつけられている。恐らく、少し離れた海岸沿いのホテルから、この祭りを見るためにアレンジされたツアーなのであろう。我々は、そのすぐ横にあるホテルなので、全く気楽である。ホテルの対岸―それは川の中州の大きい島なのであるがーの広場には、大小様々なランターンが飾られているが、まだ灯りは灯っていない。その広場に沿ってレストランが並んでいるが、我々はそのうちの一つの最前列の席につき、ベトナム名物、生春巻きなどを摘みに、ビールを飲み始める。道行く人を見ていると、観光客以上に、明らかに地元と見られる家族やカップル、若者などが目につくので、地元民にとっても大きな祭りなのであろう。夕暮れの風は心地よく、ビールが進んでしまう。時間が7時に近くなり、夕闇が迫ると、次第にそこここのランターンが灯りはじめる。しかし、目も前にある大きなランターンは暗いままである。この祭りの特徴は、小さなランターンを川に流す「灯篭流し」であるが、それを抱えてお客に薦める売り子があちこちに現れ始める。それを見ながら、この最前列の心地よい場所から移るのも面倒なので、そこで夕食も注文することにして、炒めものをいくつか注文。追加のビールを飲みながら過ごしている内に、周囲の暗闇が深くなった。代金298,000ドン(約1,500円)を払い、店を出て、動き始めることにした。

 暗闇の中、人の群れを抜けながら河に近づいていくと、直ちにランターン売りがアプローチしてくる。そのうちの一人と交渉し、ランターン二つとボート、250,000ドンでダンし、河岸からボートに乗る。河の中で点灯している蓮を模ったランターンをボートで回りながら灯篭を川に流す。もちろん周りは似たようなボートが溢れている。ボート周遊自体は15分程度の短いものであるが、一応この晩のメインとなるイベントであった。

 ボートから上がり、島の中に向かう広い通りに広がる夜店の人ごみの中を散策する。タイのナイトマーケットと同じで、雑貨や食品を売る店が所狭しと並んでいる。違うのは、通りの入り口あたりが、大小、色とりどりのランターン屋で占められていること。なかなかきれいではあるが、さすがに買って持ち帰るのは大変そうである。いくつかの店では、宣伝の写真でも撮っているのだろう、専門家っぽいカメラマンとポーズをとる男女モデルの姿もあった。一通り眺めた後、デザートを兼ねバナナのパンケーキのようなものを頬張りながら、夜の日本橋を眺めて、ホテルに戻った。

5月21日(土)

 朝食ブッフェを食べ、8時に時間通り迎えに来た車でミーソンへ向かう。来た道ではない方向から街を出て、農村部を抜け50分程で、遺跡の入り口に到着する。シン・ツーリストの料金に入場料は入っていないので、一人150,000ドンのチケットを買うが、それでも格安のツアーである。入口からトラムで山道を登り、またそこから10分程歩くと遺跡に到着する。

 ガイドブックによると、この遺跡は、4世紀後半、チャンバの王がシヴァ神を祀った木造の祠堂を建てたことに始まり、その後レンガ作りの建造物が建てられた。現在残っているのは8世紀から13世紀末までに建てられたものということである。ベトナム戦争時、ベトコンがここを基地としたことから米軍の爆撃を受け破壊されたという。現在はホイアンの街と同様、ユネスコの世界遺産となっているそうである。

 以前NHKの番組で、知り合いの考古学者が、ベトナム中部の遺跡が、カンボジアのアンコールと同じ建築様式で造られており、10世紀前後に、そうした建造技術が、インドシナ半島の広大な地域で共有されており、職人の交流があったというコメントをしているのを聞いたことがある。その時は、その知り合いがインタビューを受けているということの方に気を取られ、またホイアンという地名もあまり意識していなかったので、その遺跡の場所は記憶に残っていないが、今から考えると、このミーソンであったのではないか、という気がする。近々、この知人と会う機会があるので、確認してみたい(その後、直接本人に会って確認したところ、彼が番組で説明したのは、ミーソンから30キロほど南にある遺跡であったとのこと。しかしミーソンも、彼が番組で紹介した「クメール様式」の影響を受けている、とのことであった。)。

 遺跡は森の中に、何か所かに渡ってあるようであるが、ベトナム人の男性ガイドに案内され主要なグループCとDの地区を眺めた後は、勝手に動く。アンコール等と比較すると圧倒的に規模は小さく、痛みも激しい。明らかに日本からのパックツアーで来たと思われる日本人中高年のグループが二組訪れたので、その後ろにくっつき、ベトナム人ガイドの下手な日本語説明なども聞いた後、トラム乗り場に向かう。10時半から、その入り口近くのホールで音楽と踊りのショウがあるということである。遺跡では同じ車で来た日本人夫婦やハノイから来た女子大生、あるいは入り口で声をかけてきた一人旅の日本人のおばちゃん等と時々言葉を交わしながら眺めていたが、ホールに行く時には、彼らの姿はなかった。ベトナム人のガイドが別の遺跡にでも案内したのだろう。

 時間通りにホールでショウが始まる。伝統楽器によるバンド演奏と、女性3人、あるいは、男性が入ったダンスであるが、結構楽しめた。30分程でショウが終わり、またトラムで入り口まで帰った。11時半の集合時間までまだ時間があったので、入り口横にある遺跡の歴史等を展示した博物館を眺めながら、集合場所に向かった。帰りのミニバンで、横に座ったスイス人の若いカップルと話している内に、ホテルに到着した。

 既に時間は午後1時になっていたので、昼食も兼ねてホイアンの街に出た。天気は朝から薄曇りで、昨日ほどの暑さはない。日本橋のすぐ横にあるレストランで、またビールと、三大名物の残りの一つである「カオ・ラウ」と「フォー」を一つずつ注文する。「カオ・ラウ」は日本人が伝えた伊勢うどんがルーツと言われる米製の麺である。この日の「カオ・ラウ」は、スープの少ない「冷やしうどん」といった感じの料理であったが、相変わらずさっぱりして、胃に優しい味である。ビール3本を含め、また200,000ドン程度の料金である。

 食後、昨日は暑くてあまりゆっくり歩く気にならなかった街並みをゆっくり眺めて回る。アオザイで有名なベトナム・シルクの仕立て屋も数多く店を構えている。昨日購入したチケットが必要な、寺や昔の富豪の家を博物館にした「貿易陶磁博物館」などに入りながらのんびり歩いている内に、外では雨が降り始めたが、それも長くは続かなかった。河の対岸の中州にマッサージ街があるというので、そちらに渡り、また1時間のマッサージ。料金は最初は高めであったが、200,000ドンといって立ち去ろうとすると、それで良いという、いつものパターンである。マッサージ後は、中州の対岸まで行ったところ、対岸は湖のように川が広がっていた。そこにある船着き場で、2席の船を繋いだ上で、仏教僧がお経を読み、そこに多くの人々が集まっている風景に出くわした。地元民が、家族でお茶を飲んだり、若者が小さなゲームに興じているような喫茶店で、スピーカーで拡張されたお経を聞きながら、その光景を何となく眺めていた。一旦岸を離れた船は、また埠頭に戻ってくるが、そこでまたおそろいの上着を着た中年女性数人を乗せて、また航行していったのは、間に合わなかった人々を迎えに戻ったのであろう。後でホテルに帰って聞いたところ、この日は仏陀の誕生日で、信者がその法事を船の上で行っているということであった。そこからの帰途、店頭に鯛のような魚を置いているレストランがあった。その魚の値段を聞くと200,000ドンということであったので、また後で戻ってくるよ、と言い残してホテルに戻る。既に昨日も通ったその通りでは夜店の準備が進んでいた。我々が小さな雑貨に関心を示したことから、そこのおばちゃんにしばらく付きまとわれたが、振り切ってそのままホテルに戻ったのだった。

 ホテルで少し休んでから、また6時頃、同じ場所に戻る。昨日のような喧騒はないが、それでも地元民、観光客それぞれが集まり始めている。昨日は点灯されていなかった広場の大灯篭が今晩は点灯されているのは、昨日は月に一度の祭りのために暗闇が必要であったからであろうか?先ほどおばちゃんに付きまとわれた雑貨を別の店で買い、例の魚の店に戻る。一旦蒸した後で、通りに出したバーベキュー台でアルミホイルに入れて調理された魚は、中々美味で、ビールと併せて280,000ドンの夕食であった。帰りがけに、屋台で、事務所への土産のクッキーなどを仕入れ、ホテルに戻る。昨日もそうであったが、ホテルの横で、砂糖キビを絞る屋台があり、周辺におかれた簡易椅子で地元民がのんびりと過ごしている。ホテルのフロントで「あれは何を売っているのか」、と聞くと、砂糖きびジュースであるという。混ざり物はない、純正ということなので、一杯買って、ホテルの入り口前のテラスで飲んだが、それほど甘くなく、意外と美味であった。砂糖きびジュースを飲み終わり、部屋に帰った。

5月22日(日)

 旅行の最終日。朝はゆっくり起きて、ブッフェの朝食をとる。いつもアジアの旅行では、余暇の時間があると、ホテルのプールで泳いだり、日光浴をするのであるが、食堂のすぐ横に見えるこのホテルのプールは小さく、サンデッキも狭いスペースに置いてあるだけなので、今回は泳がず、12時のチェックアウトまで、また街を散策しようということになった。

 荷作りを済ませて、9時頃ホテルを出て、もう十分知り尽くした旧市街に出る。まだ3枚チケットが残っているので、これを使うことも目的である。昨日からうって変わり、この日は陽射しが戻っていたが、時間が早いので、まだ耐えられないほどの暑さではない。河に並行した通りを歩きながら、200年前に建てられたという、富豪の家である「タンキーの家」に入る。木造2階建ての家であるが、壁に年号の入った傷がある。聞くと、それは横の河が氾濫した年号と、その時の浸水の高さであるという。昔、ドイツのライン川沿いで、同じような記録を見たが、石作りのドイツ家屋に対して、こちらは木造であるので、腐食等のリスクは高いと思われる。そうした自然災害にあいながら、良くここまで持ちこたえたと感心すると共に、現代でもまだ護岸工事は出来ていないので、昔と同じリスクがあることに対し、政府は対策を講じないのだろうか、と感じてしまった。遺産に指定されているこの家を含め、多くの家にはまだ実際に人々が生活しており、洪水の時は2階に避難するということであるが、その前に堤防を整備するべきなのだろう。ここで、西洋人の老夫婦が、ガイドから英語の説明を受けていたので、横で聞いていたが、偶々男がベトナム経済の質問をした際に、「自分は銀行に勤務していた」と言ったので、横から「私も昔銀行員だった」と介入した。男が「どこの銀行だ」と聞いてきたので、かつて勤務した銀行の名前を言うと、男が驚いた様子で、自分は同じ銀行がニューヨークに作った合弁銀行で勤務していた、と返してきたのだった。彼らとはそれ以上に踏み込んだ会話はしなかったが、こうした偶然の邂逅も旅の楽しみである。

 そこを出て、ブラブラ歩いていると、ある建物の入り口にあるホールで何かの準備が行われている。聞くと、10時半からチケットの対象になるコンサートがあるという。まだ30分程時間があったので、後で戻ってくることにして、また進んでいくと、突き当りに賑やかな一画があった。メインの通りが、まだ人出が少なく静かだったので、何かと思って近づくと、そこはマーケットで、多くの地元民が、朝から買い出しに来ていたのだった。ホーチミンにも「ベンタイン市場」という大規模な市場があり、観光客を必ず案内する場所になっていたが、その小規模なものである。そこで若干のお土産品などを、いつもの通り値段交渉をしながら購入し、10時半に、先ほどのコンサート会場に戻った。

 我々は最前列に席を取ったが、100人ほど座れる椅子は、直ぐに一杯になる。昨日ミーソンで見たのと同じような演奏と踊りであるが、演奏はこちらの方が圧倒的に上手い。特に途中で挿入された、男性二人での、二胡に似た弦楽器と横笛のデュエットでの演奏は、迫力もあり中々楽しめた。30分程でそれも終わり、また通りをそぞろ歩きしながら、ホテルに戻った。

 12時前にチェックアウトを済ませた後、午後2時のピックアップ前に、近所で昼食をとることにして、対岸の島に渡った。ホイアン最後の食事は、鶏のつみれ、茄子のホットプレート、空心菜の炒めもの、そしてビール。時間があるので結構ビールが進んだが、料金は230,000ドン。最後まで食事は安く、そして美味しかった。ホイアン最後の景観を楽しみながら、のんびりと時間を過ごし、ホテルに戻った。

 午後2時、迎えに来たシン・ツーリストの車に乗り、ホテルを出発する。ホテルでのアレンジに比較して略半額であったことから、どんなボロ車が来るかな、と心配していたが、トヨタのSV車で、社内もゆったり。さすがシン・ツーリストである。一昨日、空港から来た道を30分程走ると、行きにも見えた「Marble Mountain」が眼前に屹立してきた。運転手は、周囲に無数に並んでいる大理石土産店に寄るか?と聞いてきたが、取りあえずここの入り口に行ってもらう。

 この地表から隆起した岩盤は、このメインの場所以外にも合計5つあり、「五行山」と呼ばれている。木山、陽火山、陰火山、土山、金山、水山の5つで、この山は木山というそうである。入口の傍で車を降り、1時間半後に、同じ場所でピックアップするということで、山に向かう。エレベーター片道料金を含め30,000ドン/一人を払い、そのエレベーターで一気に仏閣のある中腹まで登る。そこからは徒歩での登り。すぐに展望台があり、ダナンの海岸線から海が一望に眺められる。更に登ると、やや開けた平らな場所に、別の寺院がある。そしてそこから更に登ったところが、この山のメインのスポットである「ドンヴァントン」と呼ばれる洞窟である。小さな洞窟から更に奥に入るともっと大きな洞窟があり、ここがこのルートの最終地点である。上空には穴があり、陽射しが差し込んでいるが、これはベトナム戦争時にベトコンがこの山を基地の一つとしたために、米軍が爆撃したために空いた穴ということである。正面の高いところに石像の仏様が安置されている、中々神秘的な洞窟である。

 我々は、その後広場からの分かれ道を登り、別の小さな洞窟なども訪れたが、別に更に登り、この山の頂上まで行くルートもあるという。陽射しも強く、十分楽しんだので、頂上には行かず、帰りはエレベーターではなく、徒歩で登山道を下り、入り口まで戻った。途中で、多くの寺院や、仏陀の悟りを著した彫刻群などがあり、この山が信仰の拠点であることを物語っていた。

 午後2時半に到着し、戻ってきたのが3時半。車のピックアップまでにはまだ30分あるので、立ち並ぶ大理石関係の土産屋を数件覗くが、どこも同じようなもので、特段関心があるものもないので、少し早いけれども近くで駐車して待っていた車に戻り、空港に向かうことにした。2日前に通った海岸線に沿った道からダナンの市街に入り、4時前には空港に到着したのだった。

 ダナン空港は、ベトナムの地方空港であるにも関わらず、近代的なビルで、チェックインも全く問題なく済んでしまう。そうした空港なので、出国した後もそれなりの設備があるのかなと思い、中に入ったが、きれいではあるが、免税店やカフェ/バーは少しあるだけで、結局我々は、最後に残した数万ドンを、安いスナックで処分し、搭乗までの2時間弱を、待合室で過ごしたのであった。ようやく6時過ぎに搭乗開始(直前に、出発ゲートが変更になり、一階下の待合室に移ることになった)。それでも定刻6時30分に、シルクエアー(MI633便)は出発し、予定通り午後10時過ぎにチャンギ空港へ到着したのであった。

 今回の旅行は、私にとっては2回目のベトナム旅行で、また中部ベトナムは始めての訪問であったが、前回訪れたホーチミンに比べて、この地域はツーリズムがきちんと整備されているという印象であった。それは、この地域が観光資源に恵まれていることに加え、今回の旅行で、日本人や中国人、韓国人といったこの地域の一般的な旅行者に加え、欧米人の観光客も多く見かけたことからも感じられた。もちろんコストの安さも、この地域の観光を魅力的にしているのは間違いない。また今回の滞在中に、ここが社会主義国である(例えば、行動等に何がしかの制約が加えられる等)と感じさせる経験も全くなかったのも、好感が持てた。こうしてダナンを中心に、この地域では今後大規模な観光ホテルの開発も進められ、この国にとっても貴重な外貨収入源としての役割が期待されることになっていくのであろう。インドネシアやマレーシアのように、モスレムの下でのある種のタブーもなく、食事も癖のないこの国は、政治体制の違いを越えて観光客を惹きつける基盤を持っていると感じたのである。

 我々が帰国した翌日、米国のオバマ大統領が、日本での伊勢志摩サミット出席への途上で、ハノイに立ち寄った。また帰国後、在ベトナム米国大使が、ダナンで行われた、「枯葉剤の除去」計画の記念式典に出席している模様が、日本のテレビ・ニュースで報道されていた。今回の旅行でも、ミーソン遺跡や「Marble Mountain」の爆撃被害等、ベトナム戦争の痕跡も一部に感じられたが、今や米国はベトナムにとっては、中国に対抗する上での重要な切り札となっている。父親がベトナム戦争で戦った地を訪れてみたいという米国人も多い、という話も聞くが、社会主義の一党独裁という政治体制にも関わらず、この国が今後欧米とどのような距離感を保っていくか、また欧米もこの国に対してどのような姿勢で対応していくか、興味は尽きない。

 尚、この旅行での写真の一部をFacebookに掲載したので、ご興味のある方はご参照下さい。

2016年6月5日 記