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シンガポール通信
旅行
スリランカ旅行記
2020年1月24日−27日 
 2020年の旧正月休暇は、日本の新年から然程時間が経っていない1月末。この連休に、昨年5月、出発直前のテロのためキャンセルし、ラオスに振り替えたスリランカ旅行を再度試みることにした。

 この時スリランカから振り替えたラオス旅行記に記載したとおり、昨年4月21日(日)朝9時(現地時間)に、コロンボ市内5箇所で大規模な爆発が発生。その後イスラム過激派による同時テロ(自爆テロ)であることが判明したが、市内の高級ホテルに宿泊していた外人(現地在住の日本人女性1名を含む)を含め、300人以上の死者がでる大惨事となった。

 それから約9か月。その後は更なるテロのニュースもないことから、とりあえずは大丈夫と判断したが、もちろんこうした事件は、時と場所を選ばない。もちろん、東南アジアの国々を旅行する時でも、そうしたリスクはつきものであるが、南アジアの場合は、それとは、比較にならないくらいの注意が必要である。そんな思いを抱きながら、1月24日(金)、1日の休暇を取り、この国に向かった。

 今までアジア関連の本は数多く読んできたが、この国についての本は、全く接したことがないことに気がついた。実際、ネットでスリランカ関係の本を検索してみても、旅行関係や、スリランカ風マッサージであるアーユルヴェーダの紹介ばかりで、この国の歴史や政治・経済などを論じたものはほとんどない。もちろん、最近は、中国の「一帯一路」政策のうち、海の拠点として中国の影響力が強まっているこの国に対する関心も高まっているが、北海道の約8割の面積のこの国を単独で論じようという試みは、少なくとも日本ではあまりないということであろう。一応外務省の地域解説で、この国の概要を確認しておくと、人口は20百万人を若干上回る程度(2016年現在)、民族構成は、シンハラ人が約75%、タミル人が約15%(この人口構成が、言うまでもなく、後述する内戦の主因である)となっている。この民族構成もあり、宗教的には、仏教徒が約7割、ヒンドゥー約13%、モズレム約10%という。

 政治的には、周知のとおり、1983年以降25年以上に亘り、スリランカ北・東部を中心に居住する少数派タミル人の反政府武装勢力である「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」が、北・東部の分離独立を目指して活動し,政府側との間で内戦状態であったが、2009年5月に政府軍がLTTEを制圧し内戦が終結することになる(この時、北部に立て籠もっていたLTTEの司令官が殺害されたというニュースは、私が当地に来て間もない時期であったことから、今でもありありと覚えている)。そして内戦終了以降は、シンハラ人主導ではあるが、一応民主制の下、政党による政権交代もありながら、それなりに安定した社会を維持してきた。しかし、上記のとおり、昨年4月、そうした安心感を一気に突き崩すようなテロが発生し、まだまだ不安の根源的な除去には時間がかかることを示すことになったのである。

1月24日(金)

 今回のフライトは、シンガポール、チャンギ空港を午前9時45分発のスリランカ航空(UL307便)。コロンボへの予定到着時刻は午前11時5分とあるが、約4時間のフライトで、時差は2時間半ということになる。

 コロンボは、かつて1990年頃、日本からモルジブに行く途上で、1泊だけ滞在したことがある。当時友人が、コロンボに駐在しており、日本発のスリランカ航空が3時間ちょっと遅れたにも関わらず、空港まで出迎えに来てくれ、その後、市内のホテルでスリランカ・カレーをご馳走してもらった。しかし、その頃は、上記の内戦真っ最中ということもあり、郊外などはもってのほか、コロンボ市内でも十分な警戒が必要である、ということで、市内観光らしきこともほとんでせず、モルジブに移動した記憶がある。

 スリランカ航空に搭乗するのも、その時以来、約30年振りである。その時の遅延の記憶から、ちゃんと定刻通りとぶのだろうか、と懸念していたが、全く問題なく出発。またその30年前の記憶から、機内では、オーディオや食事のサービスはないのだろうと考え、いつもの格安航空の癖から、搭乗ゲートで、持ち込んだ空のペットボトルに水を補給して乗り込んだが、そんな懸念は全く不要であり、映画・音楽のオーディオや、昼食サービスも通常通りであった。

 定刻よりやや早い午前11時前にコロンボに到着。入国コントロールも多少の列はできていたが、バンコクに比べれば圧倒的に短時間で済み、ホールで待っていた現地ガイドと合流する。今回のツアーは、13人の参加ということで、全員が揃うまでの待ち時間に、シンガポールではできなかった現地通貨、スリランカ・ルピーを調達する(Bank of Ceylon。チャンギ空港の両替では、スリランカ・ルピーはないとのことであった)。S$100=PR12,965。S$/円を80円とすると、1円=RP1.62、即ちPRを約0.6掛けしたのが円金額というイメージである。

 参加者全員が揃った12時過ぎに大型バスで出発。メンバーは13人。全員シンガポールからの参加のようで、中高年カップル4組、若いカップル1組、単身男性が、小生を含め2名、単身女性が1名といった構成である。バスはゆったり座れるので、独り者は、2座席を占めることができる。

 男性ガイドのヤペさん(その後39歳ということが分かった)は、仏教徒のシンハラ人。独学で日本語を学んだということで、その後はすべての説明、会話は日本語で過ごすことになる。もちろん時々文法間違いなどはあるが、性格も明るく、たいへん楽しいガイドである。別に運転手とサポートの男性の2人も同行することになる。

 この日の最初の観光は、ダンプッラ石窟寺院ということである。バスは、田園風景が広がる田舎から、時折小さな町を抜けていく。小さな町で、日本語の「スプートニク国際学院・日本語センター」という看板がかかっているのを見て、「こんなところにも日本語学校があるのか」等と考えていた。道幅は狭く、バイクや人・犬などの横断も頻繁であることから、運転は注意を要するようで、数回、前の席に座った男性が、「危ない」と声を上げることはあったが、基本的には、座席でのんびりしていれば、観光地に案内してくれる気楽な旅である。午後2時半頃に、トイレ休憩ということで、一旦下車。もう一人の単身男性も喫煙者ということが分かり、その後は彼とほとんどつるんで動くことになった。

 午後3時40分に、ダンプッラ石窟寺院に到着。位置的には、コロンボの東150キロほどにあるという。紀元前1世紀に、岩山の中腹の洞窟に作られた寺院で、スリランカでは最も保存状態の良い、多くの美しい仏像や壁画が残されており、1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。

 約400段あるという階段を登っていく。空は晴れて、日差しも強いが、参道は木陰となっており、空気は乾燥していることから、到着した時の長ズボンでも、然程暑苦しいことはない。登るにつれて、雄大な景観に息を呑む。広々と広がる原生林と、そこから望む遠くの山々。隣の岩山の頂上付近にも宗教施設のような建物が見える。そして階段を登り切った広場で靴を脱ぎ、寺院の中に入る。ここで、短パンの男性は、腰に布を巻くよう指示されていたが、これはその後の宗教施設では定番となるのであった。

 大きく横に広がる岩盤に開いた洞窟に入る。ガイドのヤペさんによると、現在は岩盤に沿って屋根付きの通路が作られているが、昔はそれはなかったことから、雨水が洞窟の中に入らないように、岩の上方を削り、水が外に流れていく水路が作られているという。そして最初の洞窟に入ると、確かに釈迦像や王族の像、そしてパゴダなどが数多く配列されている。また天井を中心に、もちろん一部はやや剥がれているものの、多くの壁画も、とても2000年前とは思えない鮮明さで描かれている。ヤペさんの解説によると、12世紀に、この地域を収めた王が仏像を金箔で飾り、また18世紀にはキャンディ王国により修復作業が行われたとのことである。こうして3つの大きな空間と2つの小さな空間を訪れるが、個人的に面白かったのは、5つ目の洞窟の入り口に、この寺を守るため、ヴィシュヌ神の像が飾られていたこと。ヴィシュヌ神は言うまでもなくヒンドゥの神であるが、それが仏教寺院を守っているというあたり、いろいろな宗教の影響を受けて、この地の信仰がある種混交宗教(シンクレティズム)となっていたことを物語っているのではないかと感じたのである。

 こうして5つの寺院を訪れた後、再び階段を下り、入り口に到着したのは午後5時半前。約1時間半ほど滞在していたことになる。

 初日の観光は以上で、後はそれぞれのホテルに向かうということであり、20分ほどで、まず森の中にある高級ホテルに向かう。何組かがそこで下車し、ヤペさんがしばらくチェックインの手伝いをするのを待つことになる。その後、広大な湖(紀元前に作られた、灌漑用の人工湖であるという)を見ながら二つ目のホテルに向かうが、ここは結構距離があり、午後7時、二つ目のホテルに到着した頃には、すっかり日が暮れていた。機内で昼食を食べたのはシンガポール時間で午前11時頃であったので、スリランカ時間では午前8時半。既にそれから9時間近く経っており、お腹も相当空いてきている。結局私ともう一人の単身男性二人が宿泊するホテルに到着したのは、最初のホテルに到着してから約2時間後の午後7時半。途中、ヤペさんから、「ジャングルの中の夜道は、コブラなどが出るので大変危険」等と聞いている最中に、突然バスの左前に大きな姿が蠢いた。何と野生の象が、道を横切ろうとしていたのだった。大型バスであれば、万一衝突しても大きな破損にはならないだろうが、セダン・クラスの車であれば、乗員が大怪我をする可能性もある、というのは、この地の自然の姿であるのだろう。

 ホテル(Acme Grand Hotel)到着後、荷物だけ部屋に投げ入れ、直ちにブッフェの夕食レストランに向かい、今晩は同じホテルに泊まるというヤペさんを交え、3人で、ボトル一本Rp650のLionビールを飲みながら、カレー中心のブッフェを美味しく食べたが、ヤペさんによると、明朝も、我々のホテル出発で、二つのホテルを回り、午前の目的地であるシギリヤ・ロックに向かうという。ホテル・ピックアップに2時間を有する、というのも、やや腑に落ちないものであったが、ヤペさんによると、それが最も時間を短縮できるルートということである。二つ目のホテルは、シギリヤ・ロックに近いので、むしろ遠くのホテルからピックアップするべきではないのか、という不満は残ることになった。確かに、我々二人のホテルが最も安いところなので、それはしょうがないとも考えられるが・・。食後、シャワーを浴び、接続したWiFiで、日本の家族等とも連絡をとった上で、午後11時頃(シンガポール時間:午前1時半)に就寝した。
 
1月25日(土)

 いつものように、朝は4時半に目が覚め、結局寝られないことから5時に起床し、シャワーを浴びた。辺りがまだ暗い中、テラスに出ると、この辺りでもモスクがあるのだろうか、コーランとおぼしき読経が遠くのスピーカーから聞こえてくる。今日は、今回のツアーで、個人的には最も楽しみにしているシギリヤ・ロック観光の日である。6時半までメールやネットで時間を潰し、朝食をとってから、ピックアップ時間の7時半にホテルを出た。

 昨日のコースの逆を辿り、2つのホテルを回る。2つ目のホテルを出たところで、既に近くに、この岩山が望めるが、バスはそこから遠ざかり、昨日最初に寄った3つ目のホテルに向かう。途中、道端の小さな池で象を洗っている場所があり、ヤペさんが気を利かしてバスを止める。そこで15分程、象の水洗いを眺めてから再度出発したこともあり、そのホテルに着いたのは9時ちょっと前。そしてシギリヤ・ロックの入り口に到着したのは9時40分と、我々のホテルを出てから2時間経過した後である。

 「時間の無駄!」と呟きつつバスを降りるが、直ちに目に飛び込んできたシギリヤ・ロックの威容に、そんな気分は直ぐに吹き飛ぶことになった。入口から、平面に広がる王宮跡や堀の彼方2キロくらいはあるだろうか、その岩山が聳え立っている。まさに楕円の円柱上の岩盤は、ほとんど垂直に地面から盛り上がっている。入口から頂上までの高さは約200メートル(標高は370メートル)で、階段は、歩き始めた入り口から1202段あるという。

 今回二つ目の世界遺産(1982年登録)であるこの遺跡は、5世紀にこの地域を支配したカッサバ1世という王が、岩の麓と頂上等に王宮や庭園、堀等を建設したものであるが、王宮については、現在はその基盤が残っているだけである。しかし、この岩を核にした要塞都市は、アンコールやボロブドゥールとはまた違うスケールの遺跡である。しかも、こちらはアンコール等よりも5−6世紀早いというのも驚きである。こうしたヤペさんの解説を聞きながら、岩盤の麓まで歩き、そこからいよいよ急な階段を登り始める。

 昨日のダンプッラ遺跡と同様、直射日光はなく、空気は乾燥し、心地よい風もあるので、登山には格好の気候である。まずは、石の階段をしばらく進み、次第に下界の広大な景観が広がってくる。そして続いて岩肌に張り付いて垂直に上がる鉄製の螺旋階段が見えてくる。これが、この遺跡の一つのハイライトである「シギリヤ・レディ」の壁画が描かれている洞窟に至る道であるという。私は高さにはあまり問題はないが、高所恐怖症の方にはやや厳しい階段である。人一人が歩ける広さなので、観光客が殺到したら相当の渋滞が予想されるが、この日は、時々つかえる程度で、ゆっくり登りきると、そこの洞窟に描かれているその壁画を眺めることができる。昨日の洞窟は撮影は自由であったが、ここは撮影は禁止である。ガイドのヤペさんは、「これは私の一番大好きな女性の壁画です」等と説明している。ネットによると、このフレスコ画は、イギリス統治下の1895年に、イギリス人により発見されたとのことである。いくつか描かれている壁画は、一部剥がれているものもあるが、この「シギリヤ・レディ」は確かに、未だにきれいに保存されている。人の流れは途絶えることがないので、5分程そこでこの壁画を堪能し、別の下り専用螺旋階段で下り、それからは、岩肌に沿ってなだらかな通路、階段を経て、「ライオン・テラス」と呼ばれる広場に到着する。ここで、頂上に至る最後の階段を登る前の小休止をとる。

 ここにはかつては大きなライオン像があったと言われているが、現在は、ちょうど階段の登り口の両側に大きな足が残っているだけである。天気はやや雲がかかってきているが、その分風が心地よい。15分ほど休憩してから、最後の階段を登り始める。この階段も岩肌に張り付けられるように設置された鉄製の階段であるが、意外とあっさり登り切り、そして頂上に到着する。時間は11時10分。麓でバスを降りてから1時間半で到着したことになる。

 そこから360度に広がる景観は壮大である。頂上の遺跡自体は礎石が残されているだけであるが、王が側近(ハーレム?)の500人の女性を交替に水浴びさせたという大きなプールや、それを眺めていた玉座などは残されている。頂上にあるプールということであると、シンガポールはマリーナベイサンズ・ホテルにあるインフィニティ・プールを想起させるが、いわばこれは、約1500年前のその走りと言えるのかもしれない。5世紀にこれが建設された頃、階段はどうしていたのだろうとか、王や側近の女たちはどうやって登頂していたのか、はたまた頂上の王宮の建築資材は、どの様にして上げたのか、といった様々な疑問が頭に浮かぶが、ヤペさんによると、階段は当時は木組みで作られ、また王や建築資材は、人力のロープによるエレベーターのようなシステムで引き上げられていたということである。いろいろ疑問は残るが、まあそれで良しとしよう。

 頂上で30分ほど過ごしてから、岩を下る。もちろん一般的には、下りの方が危険なのであるが、体力的には圧倒的に楽で、途中、祈祷のための洞窟や、そこに僅かに残っている壁画なども眺めながら30分ほどで下に到着。到着時よりも近い駐車場に移動して待っていたバスで、出発したのは12時10分であった。

 心地よい疲労感でうとうとしていると、午後1時40分、昼食場所である「ハーブ・ガーデン」に到着する。そこで、またカレーを中心としたブッフェの昼食をとった後、そこの解説員という、やはり日本が流ちょうな男性の案内で、スリランカ特有のハーブについて説明を受けることになった。

 私は植物にはあまり関心がないが、それでも15世紀以降、西欧列強が「スパイス」を求めて東南アジアに進出したことは常識である。しかし、そうした植物が実際にどのように生えているというのは、今まであまり知る機会がなかった。胡椒やシナモンといったスパイスは名前は知っているが、どの様に生えているのかを見るのも、またどの部分を使うのか、といった解説も初めて聞くものである。「このハーブ園で最も値段の高い木」と説明された白檀(びゃくだんーSandal Wood)も、初めて聞く名前であるが、これは線香の材料であるという。こうした知識は、同行したグループの女性陣がより詳しいようだった。そしてそれが終わると、木陰の席に案内され、「アーユルヴェーダ」に使うスリランカ・スパイスやオイルを使用した健康サプリ等の説明。そこで無料で10分試しにマッサージをやる、ということで、こちらの人数分の補助員が現れる。登山で疲れた足を癒してもらうのは良いだろうということで、足先にオイルを塗ってを揉んでもらった。まあ、それなりに気持ちよく、チップで、Rp1000を渡すことになった。そしてそれが終わると付属の売店で、販売が始まる。

 健康サプリから各種オイル、男性用精力剤まで、日本語解説書と共に販売されている。同行者たちは随分買い物をしていたようであるが、私はあまり関心なく、外で時間を潰すことになった。

 ハーブ園を出発したのが午後3時40分。出発して間もなく、ヤペさんが、「時間は少し遅れていますが、ノリタケのアウトレットがあるけど、寄りますか?」と声をかける。同行者から、「是非」という返事があり、またここでも、私はちょっと眺めただけで、あとは時間を潰すことになった。結局ここを午後4時過ぎに出てから、中部の街であるキャンディに向かった。

 街全体が世界遺産(1982年指定)であるという、この街に到着したのは、渋滞もあり午後5時半前。大きな人工湖の畔にバスを停めてまず向かったのは、午後5時から始まっているという、この街に伝わる舞踏「キャンディ・ダンス」の会場。30分ほど遅れて会場に入ると、太鼓に合わせた民族衣装に身を固めた若者たちによる、バック転、バック宙なども入れたダンスの真っ最中。我々の予約席に向かうと、前の列がマスクをした中国人観光客の一団であった。折からの武漢ビールス拡大の報道がなされている中、やや嫌な雰囲気で、もう一人の単身男性は、すぐに席を立ち、どこかに消えていった。あとで聞くと、マスク集団が嫌で、後方で離れて見ていたという。

 舞踏自体は、アジアのどこにでもあるようなもので、最後は松明踊りから、その火を揉みこんだり、肌を焼いたり、そして火の上を歩いたりといった「大道芸」を見せた上で、午後6時過ぎに終了。そしてこの夕方のメインである、仏歯寺(ダラダー・マーリガーワ寺院)に向かう。

 この寺は、釈迦の犬歯(仏歯)が納められていることで有名であるという。ネット解説によると、仏陀の死後、彼の歯は遺骨と共にインド各地に分割されたが、そのうちの犬歯がスリランカに渡り、これを保有していることが王権の証とされ、王都が移動するたびに仏歯も移動し、最終的にシンハラ王朝の最後の王国が置かれたキャンディのこの寺に奉納されたとのことである。ヤペさんによると、毎日午後6時から7時の間に、この仏舎利が納められている部屋の扉が開き、それを拝むことができるという。

 厳格な寺で、短パンは禁止。同行の男性は、ショールを買ってそれを覆い(私は、シギリヤは短パンで登ったが、その後の待ち時間に、長ズボンに着替えていた)、また同行の女性は、ビンテージ・ジーンズの膝に穴が開いているということで入場でひっかかり、別の女性のショールを借りてそこを覆うことで入場を許された。また、昨日のダンプッラ遺跡と同様、建物に入る前は、靴を脱ぎ、裸足(靴下はOK)となる。

 建物の中に入ると、確かに立派な仏教寺院である(以前に、爆弾を積んだ自爆テロの車が突っ込んだこともあるという)。我々のような能天気の観光客とは別に、白の装束をまとった信者や、供え物の花をもった地元民らで中はたいへん混み合っている。そして、7時少し前、人々で溢れかえっている扉の前で待っていると、それが何気なく開き、特別に礼拝を許されていると思しき信者が、そこから入っていく。我々は後ろからそれを眺めていたが、数分でそれが閉まるまで、正直、何も見えなかったが、とりあえず「仏舎利」は拝んだということにしておこう。その後、古い経典などが納められている図書室や、偶然扉が開いた小部屋の仏様などを拝観してから、その寺を後にした。寺を出たのは午後7時半過ぎ。湖の周りは既に夕闇に包まれていた。昨日と同様、高級ホテルから順に、但し今回は次が我々のホテル(Devon Hotel)で、8時半前にチェックインを済ますことになった。また同行の単身男性とビールを飲み、ブッフェの夕食を済ませてから部屋に戻り、シャワーやメールをやり、11時頃に就寝した。ここでは、どこからかダンス音楽の低音が聞こえたが、それも気にならず眠りにつくことになった(翌朝、同行の男性に聞くと、昨晩は最上階のホールで誕生会が行われており、男性中心に踊っていたとのこと。彼も入るよう誘われたが、辞退したとのことだった)。

1月26日(日)

 朝4時に目覚め、二度寝はできなかったので、さっさと起床し、シャワーを浴びてから、読書やメールで日が昇るのを待った。会場が開く6時半に朝食を済ませた後、少しホテルの近所を10分程歩いてみるが、ほとんど何もないので、また部屋に戻り、出発を待った。午前8時にバスが到着し、もう一つの高級ホテルで、残りのメンバーをピックアップした。

 この日の午前中は、予定表では「ビンナワラ観光:象の孤児院にて象のミルクやり体験、水浴び鑑賞」と書いてあるだけなので、どうやって時間を潰すのかな、と考えていると、実は「買い物」の時間であった。9時過ぎに宝石店に到着し、そこで、まずスリランカでの宝石採取現場などを紹介したビデオを見た後は、ショッピングとのこと。もちろん、私はすぐ飽きて、次に行くという隣の洋服・生地店を眺めてみたが、そこもあまり滞在する必要もなく、宝石店の裏の椅子で、出発を待つことにした。ヤベさんには、そこにいるので、出発時に声をかけて欲しい、と伝え、今回持ってきたインド本を読みながら過ごすことになった。

 しかし、中々お声がかからない。忘れられているかな、と心配になり、洋服店に移ると、まだ同行者たちは買い物の最中である。またそこの入り口で本を読みながら過ごし、結局店を出発したのは午前11時。2時間近く、二つの店で過ごしたことになる。

 今回の旅で、スリランカのマッサージ(アーユルヴェーダ)をやりたいと考えていたが、ヤペさんにそれを話すと、今回は時間がないと言われた。ただ、買い物で2時間過ごすのであれば、十分時間はあったよな、と心で呟いていると、今後は紅茶工場見学であるという。ここで30分程、英国人James Taylorが始めたという、この国での紅茶製造過程の説明を受けた後、紅茶試飲と販売会ということになった。ここでは私も、ティバック3箱RP3,000の買い物をすることになった。ここを12時半に出発。レストランでもある、象の孤児院に到着したのは午後1時半であった。

 強い日差しの中、川を見下ろすレストランに向かうと、既に道には数頭の象がうろついており、餌を買った観光客が、象の傍でそれを口に入れてやっている。そして昼食を食べ始めると、川には20頭ほどが集まって、水浴びを始めている。ヤペさんによると、この日は少ない方で、多い時は50頭程が出てくるという。ただ、東南アジアにいると象は日常的な生き物で、然程珍しくもなく、また大昔にケニアのナショナル・パークで、野生の像の集団水浴びを見た経験もあるので、あまり感動もなく、ビールと昼食の方を楽しんだのだった。

 午後2時40分に、バスで出発。次の目的地で、やはり世界遺産のゴール城塞都市まで3時間半程度の道のりであるという。ビールの酔いもありうとうとしていると、午後4時半頃に、それまでの狭い一般道ではなく、整備された高速道路に入っていた。まだ新しい高速道路で、後から聞いた話では、この国の高速道路のファイナンスは、中国と日本(JBIC)が3分の1ずつ、残りの3分の1がアジア開発銀行(ADB)から提供されたということである。バスはその高速道路を突っ走り、夕刻6時半前に、要塞都市の入り口に到着した。

 この町は大型バスの乗り入れは禁じられているということで、そこで小型バスに乗り換え、城壁の中に入る。この国に最初に入ってきた西欧であるポルトガル人が築いたが、その後英国が、ポルトガル人を追い出して支配下に治めたという町であるが、確かに、それまでのスリランカの町とは全く異なる西欧風(ポルトガル風)のしゃれた街並みである。キリスト教会や、この国で最も古い灯台などを眺めながら、海岸沿いの城壁を散策する。近くに港がないからだろう、海の水もきれいで、海風が心地よい。夕食は、この町で食べるということで、それまで若干の自由時間で、Rp300のアイスを舐めながら、しゃれた通りを散策する。「スパ」と書かれた店があるので、入ると、基本はオイル等の売店であるが、聞くとマッサージもあるという。値段は1時間Rp3800。もちろん、タイやマレーシアに比べると高いが、それでも十分安い。店員は、30分でもどう、ということであったが、夕食の集合時間まで15分程しかなかったことから、泣く泣く諦めざるを得なかった。

 今回のツアーで初めて、参加者13人が揃った、そして初めてブッフェではない夕食。メインは焼き魚を選んだが、やや塩見が残った引き締まった白身のぶつ切りで、中々美味しかった。この日はこれから約150キロ離れたコロンボまで帰るということで、これが最後の観光地である。午後9時過ぎにレストランを小型バスで出て、入り口で待っている大型バスに乗り換える。ただ出発直後、ヤペさんから「スーパーに寄って行きますか?」と声がかかり、ここで30分程ショッピング。私もここでは、スリランカ・カレーの粉末と、チリ・パウダー、黒胡椒などを買うことになった(Rp785)。

 ゴールからコロンボまでは、ほとんどが高速道路。10時前にゴールのスーパーを出てから1時間ちょっとでコロンボの町に入るが、日曜深夜でもあり、街中の交通はスムーズで、その内、高層ビルもちらほらと見えるようになる。冒頭に書いたように、約30年前に、一晩だけこの街に宿泊したが、その時はこんな高層建築はほとんどなかった記憶があるので、この街も確かに発展してきているのであろう。こうして最初の高級ホテルに着いたのが午後11時半、そこから二件目のホテルを回り、最後の我々のホテル(Grand Oriental Hotel)に到着したのは、日付も変わった午前0時30分ことであった。ヤペさんによると、「コロンボで最も古いホテル」、ということで、確かに部屋も古く、ベッド等の家具やシャワー室もあまり良くないが、時間も時間ということで、簡単にシャワーだけ浴びて直ぐに就寝したのであった。

1月27日(月)

 最終日である。昨晩到着が遅かったこともあり、結構熟睡し、6時半に起床。シャワーを浴びてから直ちに、部屋と同じ4階にある、港を一望するレストランで朝食(最後のスリランカ・カレー)を食べてから、ピックアップ時間の8時まで、街中に出てみることにした。

 この日は、シンガポールは旧正月の祭日であるが、この国は通常の営業日ということで、既に出勤の人々が通りを歩いている。ホテルの隣は警察本部で、その横が、先ほど朝食会場から見下ろした広大な港の正門である。港と反対方向に15分程歩き、早朝の都市の雰囲気を味わおうとするが、残念ながら、これといった目を引く対象もなく、8時前に部屋に戻り荷造りをした上で、8時半に、ピックアップに来たバスに乗り込んだ。この日は、既に他のホテルのメンバーは揃っており、我々二人が最後のピックアップであった。

 後は空港に向かうだけである。港の並びにキリスト教会があったが、ヤペさんによると、この教会は昨年4月のテロの標的の一つであり、またその犯行は、町の金持ちのモスレム家族の兄弟が実行犯であったとのことである。

 高速道路経由で、午前9時過ぎには空港に到着。ヤペさんに、お礼のチップRp1,000を渡し、チェックインを済ますが、ここも出国を含め、順調であった。12時5分発のフライトまで、まだたっぷり時間があるので、通関後、最後残ったRp4,000を何で処分しようかと考えていると、また例の「スパ」の表示が目に入った。値段を聞くと1時間Rp9,000であるという。昨日ゴールの街で聞いた値段はRp3,800であったので、その2倍以上。確かにバンコクの空港でのマッサージも、市内の倍以上なのでしょうがないな、と思いつつ、30分RP4,500でやることにした。残ったRp4,000とカードでのUS3の支払い。足だけ30分のマッサージであったが、シンガポールの中国風とは異なる優しいマッサージにうとうとしながら、旅の最後の時間を過ごしたのであった。定刻12時過ぎにスリランカ航空(UL308)便は出発。機内で、最後のチキン・カレーの食事と映画・オーディオを楽しみながら、やはり定刻の午後6時40分、大雨のチャンギに戻ったのであった。

 今回の旅行は、昨年のラオス旅行以来の「物見湯残」観光であったが、シンガポールに来てから初めての、日本人だけの集団旅行であった。それは、典型的な日本人が好む、「できる限りの観光スポットを入れた弾丸旅行」で、確かに旧正月で需要が多い時期であること、またこうした観光スポットが点在している場所では、会社側もまとめて面倒を見る方が、明らかに経済的であることは間違いない。しかし、以前にこうした周遊を行う場合でも、単独で動く場合は、こちらの意向に従い、適宜予定を変更することができたが、今回は集団行動であったことから、それは叶わず、前述のとおり、買い物時間には、長時間時間を潰さざるを得ないことになった。間違いなく、こうした時間があれば、単独行の場合はマッサージなどに案内してもらっていたと思う。

 他方で、世界遺産の多くに、全くお任せで連れて行ってもらえるのは、特に加齢とともに、自分でのアレンジが面倒になってきている私には有難い。それを考えれば、買い物時間やバスでの長時間移動もやむを得なかったと納得するしかない。

 冒頭に書いたように、この国について書かれた書籍は少ないことから、今回は、昨年10月に出版されたNHKの元ニューデリー支局長が書いたインド本を持参し、空き時間に読み進めることになった。この新書の中に、1ページちょっとだけ、スリランカについて触れた個所がある。そこでは、この国がタミル人との内戦を続けている間、インドや国際社会が援助に消極的であった隙を塗って、特に2007年以降、中国が軍事支援や港湾開発で存在感を高めることになったと説明されている。2014年には、(最終日に私がホテルから眺めていた)コロンボ港に、中国の潜水艦と艦船が計2度寄港。これにインドが抗議したが、当時の親中国政権はそれを無視し、また再許可を出すなどして、関係国に大きな衝撃を与えたとされる。しかし、2015年1月の大統領選挙では、今度は親中派が敗れ、新大統領が就任。彼は就任後ただちにインドを訪問、それに答え、モディ首相も、インドの首相としては約28年振りにスリランカを訪問する等、この国はインドとの関係改善に向かうことになったという。ただ依然、スリランカの南部の港が、中国からの負債の担保として、中国の権益を受け入れざるを得ない等、インドや中国などの大国との距離感には苦労している様子は感じられる。他方で、高速道路建設支援を含め、日本もこの国に対しては、それなりの支援もしていると思われ、今回の旅行でも親日的な雰囲気も十分感じられた。ガイドのヤペさんも、もちろん日本語ガイドをしていることもあろうが、言葉の端々に日本贔屓、中国人蔑視的な気持ちが垣間見られていた。またそれを別にしても、日本人にとって、やはり「仏教国」というのは何となく気楽である。東南アジアのラオスやミャンマーと同様、ここもまだまだ成長の余地はある国であることから、今後再訪することがあれば、その時はまた間違いなく、新しい姿を目せてくれることは間違いない。そんな国でのおのぼりさん旅行を堪能した4日間であった。

2020年2月1日 記