2011年 シンガポール総選挙
2011年5月7日
2011年5月7日(土)、シンガポールで、2006年以来5年振りに国会議員の選挙が行われた。
言うまでもなく、シンガポールは1965年の独立以来、「建国の父」であるリー・クアンユー(Lee Kuan Yew)が率いてきた人民行動党(People’s Action Party―PAP)が、事実上の一党独裁を維持しており、前回2006年の選挙による現状の議員数も、48議席中、与党PAPが46議席を確保し、野党は、労働党(Workers’ Party)とシンガポール人民党(Singapore People’s Party)が夫々1議席、計2議席を保有しているのみである。
実際シンガポールでは、10人以上が集まる政治集会は「許可制」になっており、野党は事実上公然たる政治集会は行うことができないし、新聞やテレビなどマスコミも実質的に政府管理下にあり野党の主張が新聞等で取り上げられることも少ないのが実態である(別掲 岩崎育夫著「アジア政治とは何か」参照)。
しかし、PAPが一党独裁体制を維持する上で遂行してきた、シンガポールの国民生活水準の引き上げという政策は、もちろん、それが国民の関心を「金儲けと個人的な生活レベルの向上」に向けることにより政治的アパシーを広げてきた側面もあるとは言え、他方で成長に伴う貧富の格差に国民の目を向けると共に、貧しい時代を知らない若い有権者を中心に圧倒的な一党支配に対する飽きも加わり、次第に選挙におけるPAP離れを助長するという傾向も生んできた。「選挙のたびに、前回選挙で野党得票率が高かった選挙区を再編するゲリマンダーが行われる」(岩崎、前掲書)ことから目立たないものの、PAPの得票率は、2001年の総選挙(当時の首相は2代目のGoh Chok Tong)での75%から、2006年の総選挙(2004年より現在のLee Hsien Loongが首相となっている)での66.6%と低落傾向を示しており、今回の選挙でも、この得票率がどうなるかが、一つの重要な関心であった。
こうした中、4月27日の公示以来、政治に無関心なこの国としては珍しい、激しい選挙戦が繰り広げられ、特に選挙運動最終週の5月に入ってからは、各党が開催する「ラリー」と称する集会が、各地で繰り広げられた。当然、今回危機意識が高まった与党も、このラリーには力を入れると共に、野党側は、前述の規制により普段こうした政治集会を開くことが出来ないこともあり、このラリーを成功させるべく、一層の動員をかけることになり、選挙の後半は、私が思っていた以上に選挙戦が盛り上がることになった。
選挙運動期間中も、いろいろな話題があった。公示期間前には、各党の候補者の選択が行われるが、時には引退するPAPの議員が引退声明の場で涙を流すといった報道もあった。日本では、今や議員の多くが「世襲制」になり、老人議員たちが現役にしがみつくと共に、引退する時は、家族の後継者にその選挙区を譲ることから、こうした光景はほとんど見られないが、ここシンガポールでは、党執行部が候補者を決める時に、こうした世襲制があるという話は聞いたことがない。もちろん東京23区程度の小さい都市国家であることから、「地方のドン」が育ちにくく、その分党執行部による候補者選択(あるいは引退勧告)が可能になるのであろう。他方、与野党を含め、特に新人候補は結構早い段階からマスメディアなどで紹介されていたが、例えばPAPから女性としては史上最年少という触れ込みで登場した27歳の女性(現首相であるリー・シェンロンの第一秘書の妻)が、登場直後からネットを中心に「経験不足」を指摘する批判が溢れ、それなりの対応を余儀なくさせられる、といったことも、そもそも与党批判が管理されているこの国では珍しいと感じたのである(ネットでのチャットはともかく、そこで批判されている、という記事が一般の新聞に出ることがとても珍しいと思う)。また同じ若い女性でも、国民連帯党(National Solidarity Party-NSP)から出馬したNicole Seahという24歳の候補は、自分の貧しい出自を語りながら、底辺の生活の引き上げを熱烈に訴えたラリーでの演説で、メディアの寵児となったのであった。
また選挙運動終盤のラリーでの演説で、首相のリー・シェンロンが、自身の4年間での政権での「4つの誤り・失敗」として、テロリストの脱獄や町の中心部での浸水、不動産価格の高騰、地下鉄の混雑を指摘し「2回謝罪した」ことも、それ自体としては決定的な問題ではないものの、従来の与党指導者の演説としては異例で、PAP支持者の中でも、この評価を巡って、様々な意見が飛び交っている。新聞、特にアジア・ウォール・ストリ−ト・ジャーナルなど、政府にコントロールされているが、必ずしも政府機関紙になっていない新聞の論調では、やはり今回の選挙は、今まで「建国の父」として、首相引退後も実質的にこの国の政策決定に大きな影響力を及ぼしてきたリ・クアンユーの退場後を考えた政策基盤を問う選挙である、という見方が一般的である。先のリー・シェンロン首相の「誤りの告白」も、PAPの「こわもて政党」というイメージを払拭し、より柔軟な印象を持たせることで支持を確保し、得票率の低落傾向に歯止めをかけようという賭けであった、との見方が一般的である。
こうした経緯を経て、5月7日(土)午前8時から午後8時までの投票が行われた。余談であるが、投票率を上げるためであろうが、この選挙日はパブリック・ホリデイとなることから、翌月曜日は公立学校は休講。一般の会社も休みにするか、あるいは私の会社のように、個人の有給休暇を一日増やす、という対応を取ることになる。
さてその結果であるが、結論的には与党PAPが87議席中の81議席を確保したものの、激戦が予想されていた5人選挙区であるアルジュニード(Aljunied)で、労働党(WP)が勝利し、複数選挙区としては独立後初めての野党勝利という快挙を成し遂げることになった。またこの選挙区では、現職の外務大臣(George Yeo)を含めた二人の与党の閣僚が落選するという事態になった。労働党はその他1名を加え、他方27年間一議席を有してきたシンガポール人民党(SPP)の老練政治家が敗退したこともあり、野党は労働党のみ合計6人当選ということになったが、これもまた1991年の4議席を超える独立後の野党議席としては最大数である。また与党の得票率も、従来の最低であったその1991年の61.0%を下回る60.1%(前回2006年は66.6%)ということで、これも前述の一党支配の変化を望む声が着実に増加していることを示すことになった。因みに前述のPAPの若い女性は複数選挙区で当選、NSPのNicoleは落選という結果であった。
こうした結果を受け、与党側は、リー・シェンロン首相が、勝利宣言と共に、「選挙民の心配の声を聞き、今まで間違っていたことを正し、より良くこの国に奉仕する道を探っていきたい」といったコメントを発表している。またWPのリーダー、Low Thia Khiangは、過去20年渡ってWPの一議席を保持してきたが、今回の躍進を受け、日曜日未明に、単なる経済成長だけではなく、血の通ったシンガポールを実現させようという勝利宣言を行うことになった。
マーケットサイドは、今回の結果は、むしろ予想していたよりも野党の議席数が伸びなかったとして、大きなインパクトはない、というのが週明け月曜日の一般的な受け止め方であった。実際、ここのところコモディティ市場の不安定もあり大きく調整していたシンガポールの株式指数も1.4%程度上昇することになった。但し、与党が進めてきた移民労働者に依存した経済成長に多少のブレーキがかかる可能性があるという見方から、不動産や輸送機器、通信業界などには多少のマイナスの影響が出るのではないか、というコメントが見受けられた。
GRC(Group Representation Costituency)という複数候補区が、前述のとおり、アルジュニードでの現職外務大臣の落選と他方で27歳の経験不足の女性の当選という結果となったことで、これが選挙制度として妥当なのだろうか、という意見も表明されている。前述の岩崎の指摘のとおり、そもそもは野党候補の強い地域をこうした複数選挙区に統合することにより、PAPの支配を確実にするシステムであったものが、今回は逆の効果になったのは皮肉であったというのが、私の受け止め方である。
こうして恐らく私のこの地への滞在中最初で最後の総選挙が終わることになったが、選挙運動自体は前述のラリーが中心で、町の中では日本のように宣伝カーが候補者の名前を連呼して走り回ったり、主要ターミナルでの演説会が頻繁に行われるということもなく静かな選挙戦であった。候補者は、主要な食堂街(ホーカーズ)なども回っていたようであろうが、私の生活域ではそうした風景に出会うこともなく、新聞等で、結果的に近所で演説会が行われたことを事後に知る程度であった。その意味では、かつて英国で経験した風景と似ているというのは、コモンウェルスの風土であるからなのだろうか?
今回の結果自体は、多くのコメントも指摘しているとおり、この国の政治が変わるものではないし、結局与党は得票率を減らし、野党の議席数が伸びたとはいえ、与党の圧倒的支配は変わるものではない。しかし、経済と社会の成熟と共に、人々の考え方や嗜好が多様化していくのは、この国も例外ではないと思われる。市場と投資の話しには熱心であるが、あまり政治の話しは自分からしたがらない、私の周囲にいるシンガポールの若者たちも、慎重に発言を控えながらも、少しずつこの国の変化を期待しているのではないか、と感じた今回の総選挙であった。
2011年5月9日 記
(追伸)
選挙終了後の5月14日(土)、突然リー・クアンユーとゴー・チョクトンの両氏が閣僚を辞任することを発表した。
言うまでもなく、リー・クアンユーは初代首相のみならず「建国の父」として「顧問相(Minister Mentor)」、ゴー・チョクトンは第二代首相(1990年ー2004年)として「上級相(Senior Minister)」という肩書きで閣僚としての立場を維持してきたのみならず、引続きこの国の政治に多大な影響力を及ぼしてきた。しかしながら、今回の選挙結果を受けて、もちろん議員としての立場や、その他ポスト(例えばリー・クアンユーは、政府投資会社GICの会長、ゴー・チョクトンは財務省(MAS)の会長等)は維持するものの、最も一般的な肩書きとして使われてきた閣僚としてのポストを辞任するということになったものである。
既に述べたとおり、今回の選挙結果は、最近のこの国の変化を象徴する結果となったことは明らかであり、リーやゴーが進めてきた、経済優先・政治的自由先送り、という従来からの政策の転換を求める声が広がっていることを示したことは間違いない。
こうした流れを受け、今回の両名の閣僚ポスト辞任は、新たな時代に向け、現在の首相であるリー・シェンロンの求心力を強めること、及び既に述べたとおり、その政権に対し、よりソフトな印象を与えるための方策と理解されている。
この国が、小さい国土と資源の欠如という厳しい存立条件を危機感に、特にリー・クアンユーの強いリーダーシップで現在までの経済成長を遂げてきたことは誰もが認めるところである。しかし、日本がそうであるように、一定の生活水準が達成されると、人々の求める価値観が変化してくる。ある意味で、今回の両名の閣僚辞任も、こうした流れの変化を感じ取った両名の、今後に向けたある種の素早い政治的判断であったのではないか、と思えるのである。既に選挙結果は、リーの退場後を織り込んだものだったという見方もあるが、それを改めて印象付ける今回の閣僚辞任発表であった。
2011年5月16日 記
(追伸2)
日本の新聞でも報道されているが、5月18日(水)、今回の総選挙を受けて、リー・シェンロンは新しい内閣を発表した。14人の大臣中、11人が交替する大幅改造となったが、同時に、リー・クアンユーとゴー・チョクトン両氏が、夫々GICとMASの会長職から辞任し、上級顧問(Senior Advisor)となることも公表されている。
両氏、特にリー・クアンユーの実質的な影響力が残るであろうことは繰り返すまでもないが、またこの日の発表は、この国がまた僅かな一歩ではあるが、「ポスト・リー・クアンユー」に向けた歩みを進めたということは間違いないように思われる。
2011年5月19日 記