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孫文南洋記念館 訪問記(写真付)
2011年10月26日 
 孫文南洋記念館については、映画評記載の「1911(辛亥革命)」の末尾に、シンガポールでの孫文ゆかりの場所として触れておいた。繰り返しになるが、孫文は革命に至る過程で、世界各地を回り革命への協力を呼び掛けていたが、シンガポールの華僑の中でも多くの支援者を持っていた。この1880年台に作られたというプラナカン様式の2階建ての邸宅は、そうしたシンガポールでの支持者の一人であり、ゴム取引で財を為した張永福(Teo Eng Hock)という華僑が、1905年、彼の母親のために購入したが、翌1906年、孫文の革命活動のために寄贈したものである。1900年から1911年までの間、孫文は何度もこの建物に滞在し、仲間たちと革命の計画を議論したという。また張永福は、孫文の革命組織である「同盟会(Tong Meng Hui)」のDeputy Chairmanにも就任し、他の華僑の成功者と共に、金銭面で孫文を支えたのみならず、辛亥革命後は、広東省の都市汕頭に戻り、そこで市長や中央銀行の支店長などを務めたという。

 建物自体は、1911年辛亥革命が成功すると、同盟会の拠点としては不要になり、インド人商人に売却されたが、その後1937年に6人の中国人が買い戻し、戦後の1951年に当時のシンガポール中華商業会に寄贈される。これが最終的に国の記念物に指定され、孫文南洋記念館(Sun Yat Sen Nanyang Memorial Hall)と命名されるのは1994年になってからである。

 丁度この建物が1年間の修復を経て、辛亥革命10周年に当たる今月10月8日(土)より再オープンされた。その週末は、私は丁度日本出張が入っていたことから、帰国後の10月26日(水)、Deepavaliというヒンドゥーの祭日に初めてここを訪れてみたのである。

 午前中は強い日射しが当たり、プールサイドで心地良い時間を過ごしていたが、昼食のために部屋に戻った頃から雲が広がり、あっという間に激しい雨になってしまった。そんな中を出ていく気にもなれず、昼食後もしばらく部屋でグタグタしていると、1時間ほどで小降りになり、そしてまた強い日射しが戻ってきた。それではこの間に、ということで、慌てて家を出た。

 私の自宅からは地下鉄で5つ。トア・パヨ(Toa Payoh)という駅で下車する。事前に調べた地図では、駅から歩けそうな距離であったが、いざ駅を出てみると、ここは大きなバス・ターミナルになっており、方向感も全く掴めない。しょうがないのでバス案内所に飛び込んで孫文記念館の場所を尋ねると、139番ないし145番のバスで3つ目とのことであった。先に来た139番のバスに乗ると、駅の横を走る高速道と運河を高架で超えるようなルートを走っていくが、そこを徒歩で超える道は見当たらず、結果的にはとても歩いては行けそうもない場所であった。3つ目の停留所で、明らかに同じ場所に行くと思われる数人と共に下車する。バス停の横に、すぐに「中山公園(Zhongshan Park)」という石碑があるのが目に入る。孫文の雅号を冠した小さな公園であるが、現在はまだ多くの修復工事が行われているという感じであった。しかし、その敷石の所々には辛亥革命に関連した歴史が書かれていたり、大きな碑があったりと、一応記念館と一体になった作りになっているのが分かる。

(中山公園石碑)




そこを5分もかからず抜けると孫文記念館に到着する。建物は、元々の所有者が名付けた「晩晴園(Wan Qin Yuan)」と呼ばれているが、その由来を示すと思われる漢詩が、敷地に入るところの壁に刻まれている。一方、建物の入口には、「孫中山南洋記念館」という、現代の呼称が掲げられている。新聞では一般の入場料はS$4と書かれていたが、この日は祭日であるので無料ということで、早速中に入る。

(建物側面と壁に刻まれた漢詩)




(入り口)


祭日ということもあり、中は結構込み合っている。入り口にある孫文とそのシンガポールでの支持者2人を移した大きな写真コピーの横から部屋に入ると、縁の品々が狭い通路に沿って展示されている。人が多いので、適当に流しながら見ていくが、そのスペース正面に掲げられている、「博愛」と書かれた書がこの部屋でのメインの展示物で、その他はどちらかというとシンガポールの支持者関係の品物がほとんどという印象である。これは孫文自身の筆で書かれ、張永福の甥に寄贈されたものであるという。

(入口の展示スペースと孫文による自筆書)




一階奥の広いスペースは、辛亥革命を中心とする、中国の20世紀前半の歴史関係と関連するシンガポール同時代の出来事などを説明したパネルと品物が中心であるが、あまり気を引くものはない。階段を上り2階に移ると、まず踊り場で目に付くのは、シンガポールでの支持者12名と移された大きな写真コピー。その右横は、小さな図書室と奥の窓のない書斎風の部屋。その左は、広いテラスに向かうドアの左に、辛亥革命時の清朝の悪政を皮肉った新聞のコピーが並び、その横では孫文がこの地を訪れていた20世紀始めのシンガポールの様子を説明するスライドが上映されている。またその奥では、別の小さなスクリーンがあり、当時の孫文の行動を追いかける解説のスライドが上映されている。これは結構面白く、孫文がまさに神出鬼没で世界各地を飛び回っていた様子や、日本で宮崎陷天と親交を深めた話しなどが説明されていて、しばらく眺めることになった。

(シンガポールの支持者との写真ー前列左から二人目が張永福。四人目が孫文)


そこから辛亥革命成功を伝える当時の世界各国の新聞記事コピーが壁一面に張られたスペースを経て、辛亥革命に至る過程で試みられた10回の蜂起を説明したパネルを横に見ながら、踊り場に戻ってくるという順路である。

(革命に至る蜂起の解説パネル)


展示は、まあその程度である。この建物の周囲には、他にも大きな仏教寺院やモスク等もあると表示されていたので、それでは少しそちらも彷徨ってみるかと考え入り口に戻ると、何と外は大雨である。ここに着いた時には強い陽射しが照っていたにも関わらず、今日二回目の豪雨である。しばらくは、入り口横で上映されていた、この建物の歴史と今回の修復過程を追ったスライドを眺めていたが、それもすぐ終わってしまった。流石に大雨の中を外に出ていく気にもならず、入場無料であるのを良いことに、再び冷房の利いた室内に戻り、もう一度何となく一階を一巡。そしてまた入り口で雨が止んでいないのを確認し、また室内に戻ったり、最初はちょっと足を踏み入れただけのテラスの端から端までをうろついたりして時間を潰すことになった。かれこれ30分位、無為な時間を過ごしただろうか。新たに雨の中到着する人はいても、帰ろうとする人はいないので、どんどん室内が混雑してくる。そこで雨が小降りになったのを見て、外に出て、この建物全体の正面写真をとった上で、到着した時のバス停に戻ることにした。来た時のトア・パヨ駅に戻る手もあったが、この位置は手前のノベナ駅との中間でもあることから、こちらに向かうバスを待つことにする。しかし雨足が速まってきたのを受けて、偶々通りかかったタクシーを掴まえてしまった。今日は、入場料$4を節約したから良いだろう、等と呟きながら、家の近所のSCまで$6.5で帰宅することになったのであった。

(孫文像と晩晴園全景)






 映画「1911年辛亥革命」に触発された、この地で訪れていなかった数少ない場所の一つの観光は、こうして雨により思いのほか時間をかけた見学になった。確かに、現在の辛亥革命100周年という節目でもなければ、あえて交通も便利でないこの館を訪れることもなかったであろう。

 しかし、この館は、自分たちの故郷の政治に思いを馳せる華僑中国人の思いが籠った場所であることは間違いない。実際、この日訪れていた人々も、ニンニクの匂いを振りまく、中国語で会話をするおじさん、おばさんが圧倒的で、私のような日本人や欧米人は満員の室内に数えられるくらいしかいなかったように思う。現在でも多くの華人は、こうした形で自分たちの故郷である中国大陸に思いを馳せているのであろう。この館を孫文に贈った華僑やその仲間たちが抱いた故国への気持ちが、日本の大陸侵略後は抗日運動への支援となり、そして第二次大戦開始後の日本占領下での華人大虐殺に繋がっていくのである。華僑として故国を離れ、異民族に囲まれながら生き延びてきた華人の故郷を想う気持ちと逞しさの双方を、今更ながら感じることになった訪問であった。

2011年10月29日 記