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リ・クアンユー追想
2015年3月23日 
 去る3月23日(月)、シンガポール建国の父と呼ばれるリー・クアンユーが逝去した。1923年9月16日生まれの91歳。戦後東南アジアを代表する大政治家の大往生であった。個人的には、彼と同年1月生まれの私の父が、2012年3月8日、89歳で亡くなった後、約3年後の逝去ということになる。

 既に、昨年(2014年)の National Day 式典の際に、テレビ画面に短時間だけ映された彼の表情から、従来のような生気がなくなっているのを感じていたが、今年の2月5日、彼が肺炎で入院したという報道が公表された。多くの人々が、彼が入院をしているSingapore General Hospitalに見舞いに訪れる様子が報道されていたが、3月に入ると、病状が思わしくないのではないか、といった観測が広がり、月半ばには、CNN等一部のメディアが、彼の死亡記事を掲載し、官邸の否定を受けて修正するなど、動きが慌ただしくなった。そして、3月18日、ついに、彼が危篤状態となったという記事が当地の一般紙の一面で報道されることになったのである。

 そうした中、私は日本出張の予定があり、3月21日(土)早朝、出張で日本に戻ることになる。そして週明けの3月23日(月)、ちょうど本部の事務所に出勤し、そこでメールを開いたところで、シンガポールの友人からの連絡で初めてそのニュースに接することになった。後で聞いたところでは、日本の朝のテレビ・ニュースでも短く伝えられていたようであるが、それは見逃していたのである。

 今回の私の日本出張は、シンガポールの研究者一行が、日本の研究者を訪問することから、これに同席するのが目的であった。しかし、二手に分かれて来日するそのグループの先発隊は、同日(3/23)の夜行便で出発することになっていたことから、まず私の頭を過ぎったのは、このニュースを受けて、一行の日本出張が、特に立場が上のメンバーの出張が急遽取止めになるのではないか、という懸念であった。直ちに、一行の窓口に向けて、リー氏逝去のお悔やみを伝えると共に、一行の予定に変更はないかどうかを確認したのであった。結果的には、一行のスケジュールに変更はなかったが、その確認メールが届いた夕方までは、個人的には、何とも重苦しい時間が流れたのであった。

 その間、仕事を別にすれば、私は日本で、この戦後シンガポールを率いてきた政治家逝去に伴う、シンガポール内の動きを、現地で間近に見ることが出来ないことに苛立ちを感じていた。この政治家が、戦後シンガポールの発展過程で果たした役割は、誇張しても誇張し過ぎることはない。戦後間もない時期の英国留学を経て、帰国後弁護士として、労働者の権利確保に奔走することで頭角を現し政治家に転身、当時は一般民衆から圧倒的な支持を受けていた共産党グループと共に、英国からの独立を目指す人民行動党を立ち上げる。しかし次第に共産主義勢力から距離を置くようになり、彼らとの激しい権力抗争を経て、まず1963年、シンガポールがマレー連邦の一州として英国の支配から逃れた際に州首相として、そして1965年、マレー連邦からの離脱を余儀なくされ、独立が唯一の道となった時は、42歳の若さで首相に就任、新生国家の舵取りを任されることになる。その後、資源も資本もないこの東南アジアの小国シンガポールの高成長を実現し、1990年までは首相として、それ以降は立場を変えながらも、指導部に対し絶大なる影響力を及ぼしてきたことは、誰しもが認めるところである。

 こうした偉大な政治家の死去に際して、シンガポールはどのような対応を行ったのか?日本に滞在していた私は、ネットを中心とした情報で、シンガポールの動きを追いかけることしかできなかった。まず気がついたのは、私が時折アクセスしている「yahoo.singapore.com」の画面が、通常のカラー映像から、全ての写真がモノクロ映像に変わったことである。そして業務関係のシンガポールのウェブには、ほとんど全て、彼の逝去を悔やむコラムが大きく設けられたことも特徴的であった。その後の動きも、こうしたメディアを通じて、離れて追いかけるしかなかったが、まずは、週初遺体が病院から大統領官邸(Istana)に移送され、家族、親族、そして政府高官や外国からの重要人物の弔問を受ける。そして水曜日(3/25)には、今度は、彼が1965年、そのテラスから独立宣言を行ったCity HallにあるParliament Houseに移され、一般民衆の弔問を受けることになった。真夏の日差しが照りつける中、建物前のPadangと呼ばれる広場は、弔問客で埋め尽くされ、一時は7−8時間待ちとなったり、夕方には閉館までに入りきれない人々を、早い時間に帰すなどの措置がとられたようである。

 日本での仕事を終えて、私が帰国したのは、週末土曜日(3/28)の早朝。さすがに夜行便の疲れで、その日が最終日であった一般客の弔問に出かけていく元気はなかったので、むしろ溜まった一週間分の当地の新聞(The Straits Times)をまとめて読みながら、日本では報道されなかったこの一週間のシンガポールでの動きを追いかけることにした。

 言うまでもなく、毎日の新聞には、多くの人々の弔問を伝える報道に加え、彼の幼少時からの写真や、指導者となってからの数々の功績、あるいは主要国指導者や彼の弔問に訪れた外国要人の弔辞と賛辞などで溢れている。もちろん要人の逝去に対しては、多くのメディアも同じことをするのであるが、まさにこの時に向けて準備された記事がいっせいに紙面に現れてきたという印象である。しかし、彼が、この国で持っていた権威を考えると、それは例えば、1989年1月の日本での昭和天皇の崩御の時以上の報道量である、と言える。もちろん、Channel News Asia 等のテレビも、ほとんどが、彼の昔の映像を含め、彼に関連する番組になっている。そして、この弔問も、土曜日の午後8時を持って終了し、一週間の喪を経て、3月29日(日)、国葬が行われることになる。

 それまでの真夏日から一転して、当日は朝から曇り空が広がり、涼しい風が漂っていた。午前中、私がいつもの週末のようにプールサイドでのんびり過ぎしていると、昼前から、ポタポタと雨が降り始め、昼過ぎからは、シンガポール特有の雷を伴った豪雨となった。昼食時からテレビで、この国葬の報道が始まったが、午後1時からの棺の移送に向け、雨足は激しくなるばかりである。

 その豪雨の中、Parliament Houseから、国葬の行われるシンガポール国立大学(NUS)のUniversity Cultural Centreまでの棺の移送が開始される。リー・シェンロン首相を初めとする家族・親族が見守る中、棺がガラスで覆われた荷台に乗せられ、それを8名の兵士が乗り込んだ車が牽引する。家族・親族が、その車が入り口を出るところまで後ろについて見送るが、土砂降りの雨の中、年配の女性たちを除き、傘は指さず、ズブ濡れになっている。もちろん車に乗っている兵士たちもズブ濡れである。

 報道によると、1968年8月9日、シンガポール独立後、初めての独立記念日の行進が行われた際も、激しい豪雨に襲われたという。この時、側近たちが、屋外で行われる行事をどうしようか思案にくれていた時、リー・クアンユーは、「世界中が見ている。我々は雨をもろともしない(We will brave on)」とひと言口ずさむと、自ら傘もささず豪雨の中に出て行き、側近たちもこれに従った(And brave the rain they did)という。そしてこの日も、まさに彼らは雨をもろともせず、リーの葬送を開始したのであった。

 Parliament Houseを出た車は、Padangまで、ゆっくり進んでいく。昨日までは、長蛇の列を成していた弔問客の日除けとして設置されていたテントは、一晩ですっかり片付けられ、そこに数台の大砲が置かれている。葬送の車の出発を受け、21発の空砲が放たれるが、テレビの画面で見ていると、豪雨の中、煙が下に流れていく。そして多くの人々が「雨をもろともせず」沿道で見守る中、車が進行を開始する。雨はまだ激しく降り続いている中、かつて私が勤務したビルの横を抜け、彼の選挙区であり続けたTanjong Pagarの中心部を抜け、車はUniversity Cultural Centreまでの15.4キロの道を進んでいく。沿道を埋め尽くした人々の数は、公式報道では約10万人と言われている。テレビ画面では、人々が、リーの葬列が近づくと、口々に「リー・クアンユー」と叫びながら、路上に花を撒いているのが映し出されていく。

 こうして1時間弱をかけて、葬列は私の現在の職場に近い、シンガポール国立大学にあるUniversity Cultural Centreに到着、棺と遺影が舞台の中心に設置される。そして、この時には、あれほど激しく降った雨もほとんど止んでいたのであった。

 午後2時、University Cultural Centreでの国葬が始まる。この葬儀に参加するため、国会開催中にも関わらず日帰りの強行スケジュールで参加した安部首相も、インドのモディ首相とカザフスタンの大統領の間に着席し、貴賓席で参列しているのがテレビに映される。この葬儀には、米国からのビル・クリントン元大統領他、23カ国の首脳を含め、約2200人が参加。まずはリー・シェンロン首相が、英語、マレー語、中国語の3ヶ国語で、約40分スピーチを行い、その後トニー・タン大統領他10人が弔辞を述べたようであるが、私は所用で大統領が登壇したところで外出。その後、午後4時に、黙祷のサイレンが鳴り響くのを外出先で聞くことになった。その頃には、むしろ明るい日差しが戻ってきていたのである。その後、彼の遺体はマンダイ火葬場で荼毘に付され、23日(月)の逝去から、一週間の喪を経て、この日の「建国の父」の葬儀が終了した。彼がどこの墓地に葬られるかについては、現時点ではまだ発表されていないようである。

 私が、初めて生身のリー・クアンユーに接したのは、この地に前職で着任した直後、2008年7月の、ある金融シンポジアムの特別スピーチの場であった。その時は、まだ彼の自伝を読み進めていた時期で、必ずしも彼の経歴と思想を理解して望んだわけではなかった。しかし、それでも、6年前であるので、彼が86歳の時の講演(日本人の大学教授の質問に答える形式の対談であった)であるが、その回答は淀みなく、確かに明晰な頭脳を持っているとの強い印象を抱くことになる。ただ、彼が話の中で、ある経済理論に話が及んだ際に、その理論を提唱した学者の名前が出てこないことがあった。同席していた、この地での滞在が長く、以前の彼を知っている友人は、「以前の彼は人の名前を忘れることなどはなかった」と言っていたのが気になった。その後、時期は明確ではないが、数年後に、日本人商工会議所の会合でのゲスト・スピーカーとして短時間講演を聞く機会があったが、最初の時の印象が強かったことから、この時の印象は、余り残っていない。

 別掲の「アジア読書日記」に記載しているとおり、私は彼の数多い著作(の邦訳版)としては、「回想録」と「目覚めよ 日本 21の提言」の2冊しか読んでいないが、この2冊で彼の思考様式の大枠は十分把握できる。政治信条的には反共産主義ではあるが、東南アジア特有の開発独裁の一種として、民主主義よりも権威主義的に管理された社会を志向する。しかし特に外交面では、政治信条に関係なく、徹底的に現実主義的なバランス外交を展開する。その結果、国内的では、自身と政権に対する反対者を徹底的に排除すると共に、マスメディアを含めた言論統制を敷くことになる。この戦いの様子は、特に「回顧録」で彼の視点から詳細に述べられているが、その個人信条からの賛否はともかく、当時のシンガポールの置かれた内外環境を考えると、結果的には彼の選択が誤っていなかったことは、今日のこの国の成長が証明している。そして、やはり彼が、マレー連邦への合流から放逐、あるいは共産党との対峙や英軍撤退時など、決定的な政治的局面で、ブレることなく敢然とした政治判断を行ってきたこともこうした作品からは読み取れる。他方で、一般的には、自分も殺されかけたという、日本の占領時の蛮行を批判すると共に、戦後の日本から多くの支援を受けたことや、それから学んだことも、もう一冊の著書では率直に評価するなど、すぐれたバランス感覚も持ち合わせている。こうした指導者としての全体的な能力とその政治判断の結果が、彼に対する国民の全幅の信頼をもたらしたことはいうまでもない。

 もちろん、今回のリーの逝去にあたって、彼を批判する動きもなかった訳ではない。野党指導者が、彼の逝去の直後に、彼を批判するコメントを公表し、また17歳の少年が、ウェブにリーの逝去を祝う画面を掲載し、賛否はともかく多くのアクセスが殺到する、ということもあった。しかし結局、前者は、国民からの批判を受け、結局自身のコメントを撤回し、また後者の少年は、むしろ「キリスト教を批判するという宗教的差別」を理由に拘束・査問されるということになった。例えば、日本の天皇崩御の際は、崩御特集だけになったテレビに愛想をつかし、多くの人々がレンタル・ビデオ屋に殺到したり、通常編成を変えたテレビ局に抗議の電話が殺到した、という社会現象があったが、今回のこの国での一週間の喪の期間にこうした動きがあったことは全く聞かない。それ自体社会の在り方としてはどうかとも思うが、それだけ彼が国民からの圧倒的な支持を受けていたことは間違いない。他方、日本の天皇崩御の際は、一部で殉死者も出たということであるが、もちろんこれは昭和天皇を巡る特殊日本的な情緒の反映であり、この国では起こりようがない現象である。

 「建国の父」の逝去に伴い、シンガポールが名実共に新たな時代を迎えたことは間違いない。国葬での追悼演説を、リー・シェンロン首相は、「我々は団結してこのかけがえのない国家建設を続けていかなくてはならない。この島国を世界に冠たる都市としていくこと、それこそが彼が追い求めた理想であり、彼の夢を実現することになる」と結んだ。今年(2015年)8月9日、シンガポールは建国50周年を迎え、町ではこの「SG50」に向けた準備が着々と進められているが、この「SG50」を、「建国の父」が列席し祝うことは最早できなくなった。これは現在の政権を担う人々にとっては、大きな落胆であったことは間違いない。しかし、一方で、彼が亡くなったのが、この式典前の約半年の時点であったというのは、「SG50」を「喪」にしないための、ギリギリのタイミングであったとも思える。その意味で、今回の彼の逝去は、この国での多くの政治過程で見られるような、合理的に計算され、計画されたものであったのではないかという思いも頭の片隅をかすめたのであった。

 今後のシンガポールが、リー・クアンユーが進めてきたとおりの道を歩み続けることが出来るかは分からない。もちろん世界の政治、経済環境は刻々と変化しており、日本と同様、この国も新たな環境に応じた政策をその都度的確に選択していかなければならない。特に国内市場が狭く、基本的に外需に依存しているこの国は、日本以上に外部環境の影響を強く受けることから、それに素早く適応していかなければならない。現在までは、リー・クアンユーの強烈な指導力で、それに成功してきたが、今後、現在の指導層がそれを継続的に進めていけるかどうかは分からない。更に、通常の状態であればともかく、ある種の危機が起こった際に、リーのように敢然とした判断ができるかどうか、そしてそれを国民に説得力ある形で発信していけるだけの力を持っているかが問われることになる。もちろん、経済成長を実現し、人々の生活水準も上がったこの国で、突然の政治的、経済的、社会的危機が起こることは考え難い。しかし、それでも世界経済の影響を直接受ける程度が高く、社会的には多民族、多宗教を抱えているという社会は、政策判断を誤った場合に受ける影響は日本以上に大きいと言わざるを得ない。私が、今までこの国で過ごした6年間とこれからで、この国がどのように変わっていくか?東南アジアの周辺国の変化と併せて、私のこの地での、また新しい課題ができたことを感じている。

2015年4月12日 記