21 Lessons for the 21st Centuryー書評
2019年5月17日
イスラエル人歴史教師の第3作。ここでは、前2作を受け、著者が様々な関係者との議論の中で提起されてきた問題を、21の課題に整理して、著者の見解を披露している。前2作は、ある意味、著者の専門分野での議論であったが、今回はそれを大きく超える様々な課題に切り込んでいるが、ある課題については素人の議論の範囲を出ないところもあり、示唆するところは濃淡がある著作となっている。まずは、いつものとおり、私なりに著者の論旨を整理してみたい。
Part 1, The Technological Challenges
1. DISILLUSIONMENT
産業化時代を支えたリベラリズムが、危機に瀕している。それは20世紀のナチズムやコミュニズムとの戦いを制し、「歴史の終わり」をもたらしたとされたが、その後の新たな政治的・経済的危機により、経済成長を基盤とするリベラリズムへの幻滅が広がり、地域ナショナリズムや宗教への回帰を促した。人々は、最早新たな大きなビジョンに関心を持たなくなった。更にバイオ科学や情報科学の発展は、新たな政治的・経済的未来を益々不透明にしている。新たな時代は、いかなるものとなるのか?その議論は、職業市場の議論から始める。何故なら、技術やイデオロギーに関心がない人々も、自身の失業には無関心ではいられないから。
2. WORK
2050年の職業市場はどうなっているか。人間は肉体的能力と認識能力の二つの力を有する。前者は産業革命で機械に取って代わられたが、後者はなくならず、それを使う新たな職業を生み出した。しかし、今や、その認識能力がAIにとって変わられつつある。これは初めての事態である。AIの情報更新能力とネットワーク能力が、個人の能力を上回る例(自動運転、AI医療、弁護士や銀行員等々)。
過去の産業構造の変革時には、新たな雇用が生み出されてきた。AIの発展で失われる雇用の受け皿は生まれるのか。生まれるが、それは、AIのプログラムを作り、メンテし、分析・運用を行う高度な訓練を必要とするので、受け入れられるのは高度の技能を持った一部の人間に留まる。共産主義は、大量の労働者が搾取から解放され、自らが支配者となることを目的としたが、それは労働力が経済的に必要であったから。しかし、新たな変動は、大衆の労働力を不要とする。そのため、未熟練労働者は、搾取されるのではなく、不必要な存在となり、むしろ社会のセーフティネットで支えられる。それは新たな産業構造に必要とされる技能を修得するものとなるが、それができる者のみが救済される。
3. LIBERTY
自由主義=個人の尊重は、一般大衆の政治的支持や労働力が必要な時代のイデオロギーであったが、新たなAIとバイオ技術の時代は、「大衆不要」の社会となる。また自由主義は、個人の自由な選択(政治行動、消費行動等)を前提としているが、AIとバイオ技術の時代には、この「個人の自由な選択」自体が脅かされることになる。個人はアルゴリズムが推奨する選択に従わざるを得なくなる。AIの方が、あなた自身を知っているような時代になる。そして自動運転やAI武器のように、AIによる選択のほうが、合理的な行動を行うことになる(車の衝突時や戦場での、情念を介入させない合理的選択)。そしてその先に待っているのは、情報を握った独裁者による新たなデジタル独裁である。
4, EQUALITY
平等も、近代資本主義がもたらした大衆社会のイデオロギー。かつては、土地を有する者や生産手段(資本)を持つものが富を独占した。新たな時代は、情報を持つものが富を独占する。Googleなどのコンセプトは、広告収入を得ることではなく、データを蓄積すること。それを国家がコントロールするのがよいのかは疑問。ザッカーベルグは、その20億人の顧客を使い、データの公共利用の仕組み作りを行う必要があろう。
Part 2, The Political Challenges
5, COMMUNITY
Facebookによる「コミュニティー再建」というプロジェクトの検討。しかし、Onlineのコミュミティーは、Offlineのコミュニティーを実現してこそ意味のあるものとなる(サイバー空間が何らかの要因で失われるとOnlineのコミュミティーは消滅する)。人間は肉体を持った存在で、コミュニティーはその肉体感覚を満たすものでなければならない。しかし、他方で、ポケモンGOのように、OnlineとOfflineを結びつける世界も現れている。それは人間の肉体を操作する世界となっていくかもしれない。
6, CIVILIZATION
「文明の衝突」テーゼに対する批判。人間は進化する点で、動物とは異なる。ドイツ人のアイデンティティは近代だけでも、ホーエンツォレルン、ワイマール、第三帝国、東西ドイツ、統合ドイツ共和国と変化。中世では多くの文化圏に分断されていた欧州は、現在EU文化圏となっている。ユダヤ教やモスレムの宗教解釈は、夫々の時代を反映している。中世には考えられなかった、世界各国が同一の理念の元に参加するオリンピック。イスラム・テロリストもドルに依存し、北朝鮮の核開発科学者も世界共通の物理学に従う。医学もいまや世界共通。結局のところ、文明の衝突は、対立者の接近を促してきた。欧州が直面している移民問題やBrexitの混乱も、次なる統合をもたらす契機となる、グローバリズムのスピード調整。そこでナショナリズムに回帰する必要があるか?
7, NATIONALISM
ナショナリズムは、人間に根源的な属性ではなく、広域的な問題に対応するための便宜的な求心原理。ナイルの河川管理のために王朝の力が必要であったのと同様。その意味で、決して否定的なものではなく、問題はそれが排外主義、専制・独裁をもたらす場合だけ。そして現代の諸問題―核管理、環境破壊、技術革新に伴う混乱―をコントロールするためには、個別国家の対応では不十分。家族、地域社会、国家に忠誠を誓いながら、グローバルに考えることは可能であり、それを行わない限り、グローバルな課題に対処できない。
8, RELIGION
宗教は、かねてからグローバルな思考様式であったが、それは現代に対応できるのか?現代の問題が、@技術的問題、A政策的問題、Bアイデンティティ問題に分けられるとすれば、宗教が対応するのはB。但し、それは解決策を促すよりは、問題を生じさせることが多い。
@の技術的課題は、科学に完全にとって替わられた。Aの政策的問題は、科学では解決できないが、宗教でも対応はできない。経済政策をどうするか、AIの導入をどうするか等については、それぞれの宗教固有の解決策はない。最後の拠り所はB。これについては、神道を近代国家の建設原理とした日本が稀有な例を提供する。神道による国家への帰依が、「神風特攻隊」という、最初の精密爆弾の開発を可能にした。結局、現在の北朝鮮も、こうした民族宗教による国民の国家(あるいはキム一族)への帰依を確保しようという点で、日本を真似ている。
しかし、宗教は、大衆が対象であるために、政治的な力と結びつき、世界規模の問題―核戦争、環境破壊、技術革新―に地球規模で解決を促す力となっていない。北朝鮮、ロシア、イラン、イスラエルといった国々も、宗教はナショナリズムと結びつき、個別国家の利益を誘導・確保する手段となってしまっている。そうした地球規模の問題と地域アイデンティティの相克は、リベラル理念に基づくEU統合で顕著に。統合と移民の問題。
9, IMMIGRATION
ある文化は、他の文化よりも優れているか?グローバリゼーションにより、人々の移動がより頻繁になったことにより、文化の相違が、より身近に感じられるようになる。その結果、移民問題が欧州で大きな課題となる。その議論は、
@ある国は移民を受け入れるべきかどうか?
A移民は、固有の習慣を捨てても、その'国の文化に適応すべきかどうか?
Bそのホスト国は、適応した移民を一般市民として受け入れるべきかどうか?
@について、受入賛成派は、迫害された移民を助けるのは国家の義務であるとするが、反対派は、あくまでそれは恩恵に過ぎないとする。その間に、受入れるにしても、あくまで安価な労働力として利用できる限りである、という議論も。
Aについては、賛成派は、欧州はそもそも文化の多様性を受け入れてきたとするが、反対派は、移民はまずこの他者への寛容を受け入れなければならないし、場合によっては、それぞれの欧州諸国の文化に積極的に適応すべきと主張。ただ、欧州諸国の文化、というのは何なのかは人によって意見が異なる。
Bについては適応の時間をどの程度想定するかという問題が。集団的に考えれば、過去の歴史でも数十年は必要であるが、個人的観点ではそれでは長すぎる。
それに第4の議論。移民が当該国の文化を受け入れられず、同化できない責任は、受入国にあるのか、移民側にあるのか?
かつて白人社会にあった、人種による優劣という議論は、科学的に否定されているが、一方で文化の優劣という議論は依然根強い。WarmlanderとColdianの適応事例の比喩。ただ、欧州がこの多文化に対する寛容を失うとすると、近代の欧州は自らを否定することになる。ただそこで大きな議論となっているのは、テロリズムの問題である。
Part 3, Despair and Hope
10, TERRORISM
軍事的な力を持たないテロの根幹は、人々に恐怖の感情を植え付けるというマインドコントロールで、そのための手段は、テロがメディアで大きく伝えられること。実際の被害者数は、交通事故や生活習慣病による死者を下回る。テロにより恐怖心を植えつけられないことが最大の防御。しかし、テロリストが大量破壊兵器を入手、使用することが可能になると、問題は別次元に。ただそれを防ぐために、どれだけコストをかけなければならないかは、議論の余地。
11, WAR
第三次世界大戦は起こりえるのか?武力行使で得られるものは、現代は限られる。ロシアのクリミア併合は、数々の条件が整った結果で、決して一般的な事例ではない。中国は、武力を使わず大国化を成し遂げた。
しかし、戦争は、人類の痴呆さの結果として発生する。1941年の日本も、ある時点で理性的な判断ができなくなったし、サダム・フセインやキム・ジョンイルも、合理的な思考のできる人物だった。結局、戦争を回避するには、謙虚さというのが最大の要因になる。
12, HUMILITY
多くの民族や宗教が、自分たちが世界の中心で、文明を作ってきたと主張しているが、それらはほとんどが嘘。その例がユダヤ人で、イスラエルではユダヤ人が世界の中心という教育が行われ、皆がそれを信じている。しかし、ユダヤ人やユダヤ教が人類の貢献に果たした役割は「フロイドの母(彼女がいなければ、フロイドは生まれなかった)」のようなもの。一神教の自己中心主義批判。ユダヤ人のノーベル賞受賞者も、ユダヤ教徒とは関係のない世界での成果。宗教は、謙虚さを訴えるが、その返す刀で、それを支配の手段に変えてきた。
13, GOD
自然の神秘や人間の道徳的な行動の上で神の存在は欠かせない。しかし、ビッグバンの科学的な説明ができないということと、人間の道徳的な姿勢とは無関係。神を信じなくとも、道徳的社会は形成できる。逆に神の名のもとに、非道徳的、残虐な行為が行われてきた。神を否定する必要はないが、世俗的思考を批判することもできない。
14, SECULARISM(著者による世俗主義の宣言)
その世俗的思考の特徴は、@真理と心情の区別、A同情の気持ち=他者の痛みを自分の痛みと感じること、B平等=階層・階級の否定、C自由な思考、D偏見との戦い、E責任感=経典や指導者への責任転嫁を行わないこと。宗教を否定するものではなく、どの宗教の信者であっても、上記の価値を尊重する限り、仲間である。「スターリンは世俗主義者か?」。世俗主義も簡単にドグマに陥る。リベラリズム自体もこの問題から解放されている訳ではない。イラクやアフガンの自由化のために参戦するというのも、リベラリズムのドグマ化の例。また「人権」さえもドクマ化する。それは異端審問、封建主義、ナチス、KKK等と闘う上では価値があったが、新たな時代に超人類、サイボーグ、スパコンとの戦いで有効であるかは疑問。
全ての宗教、イデオロギー、信条は負の側面を持っている。世俗主義の特徴は、そうした負の側面を意識し、完璧な思想はなく、自己の無知と無謬性を常に疑いながらゆっくりと改革を進めることにある。
Part 4, Truth
15, IGNORANCE
現代の個人は、古代の個人よりも知識は少ない(「知識の幻想」)。しかし現代の個人は、集団としての知識を活用することでそれを補い発展してきた。個人はそうした「無知」を認識せず、自分の所属する狭い集団の中で情緒的な判断を行っている。それは外から「科学的な事実」を提示しても簡単に変わらない。保守主義者が、環境破壊に鈍感で、進歩主義者が、むしろ環境保護に熱心という逆転。「選挙民が最も良く知っている。顧客が正しい」という合唱を疑う時。権力者や大実業家は、あまりに忙しいので、真実を知ることはできない。何故なら彼らはブラックホールと同じで、傍に近寄る者たちを飲み込んでしまうのだ。そうした人々は権力者や大実業家から利益を得るために、自分に有利な歪んだ事実しか伝えない。真実を知るためには、そうしたものたちから離れ、周辺を眺めなければならないが、彼らにそれを行う余裕はない。ソクラテスが看破したとおり、無知を知ることが重要だが、権力者や大実業家にはそれができない。それでは正義と不正義はどう見極めればよいのか?
16, JUSTICE
かつて個人的正義は、判断が容易―他人のものを奪うのは悪―であったが、現代においては、因果関係が複雑になり、判断が困難。自分が知らないところで、他人のものを奪った政府、会社に依存していることも多い。環境を汚染している企業へ投資して果実を得ることもある。ナチの郵便配達人は、きちんとした仕事を行い、ナチの宣伝に手を貸した。
複雑化した社会で道義的判断をする4つの方法。@単純化、A人間感情への訴え、B陰謀論、C教義(ドグマ)。その結果、我々は真理を諦め、新たなPost-Truth Eraに入るのか?
17 ,POST-TRUTH
現代ほど、嘘やフェイクニュースが溢れている時代はかつてなかったとは言え、人類は、フィクションを作ることで地球を支配していたのであり、その過程では、宗教を含め多くのフィクションが作られてきた。宗教は、ドンキホーテ、戦争と平和、ハリーポッターと同じフィクションであり、もちろん人々をまとめ、多くの芸術や建築などを生みだして来たが、他方で災禍も生んできた。1255年の英国リンカーンでの少年殺害事件をきっかけにしたヨダヤ人ポグロム。このフェイクニュースは、1955年に教会から誤りと宣言されるまで700年続いた。そしてこうしたフィクションは、スターリンやナチス宣伝のように、世界に溢れる事になる。コカコーラの広告でさえ、フェイクニュースとなり得る。そしてお金や政治制度がそうであるように、人間はそれらがフィクションであることを忘れることがある。特に権力を目指す時に、真実から離れることが多い。そうしたフェイクニュースによる洗脳を逃れるためには、@お金を払い、良質な情報源を見極めること、A良質なサイエンス・フィクションに接すること。もちろん完璧な真実はないが、より真実に近い情報を得ることを試みるしかない。
18, SCIENCE FICTION
人間はフィクションを信じ発展してきたが、現代はサイエンス・フィクションがより重要に。しかし、それは往々にして知性と意識を混乱した作品となっていることも。映画「マトリックス」や「トルーマン・ショウ」の例。アルゴリズムに捕らえられた人間が、それから逃れると次のアルゴリズムの罠が待っている現実。「固有の自己」はありえるか?ディズニーのアニメ映画「インサイド・アウト」(2015年公開)での、脳内メカニズムの擬人化の例(アルゴリズムの集合としての人間。この映画については、脳学者の大隅典子も、ブログで、科学リテラシー的な観点も入れてコメントしている)。そして古い作品ではあるが、オルダス・ハックスレイの「ブレーブ・ニュー・ワールド」(1931年刊)。「幸せの国」の支配者とはぐれ者の対話。はぐれ者は最後隠遁者となるが、「幸せの国」から逃れることはできない。人間の脳と「自己」は、マトリックスから逃れることはできない。それでも狭義の「自己」から逃れることが21世紀を生き延びる鍵になる。
Part 5, Resilience
19, EDUCATION
世界観が失われた時代の教育。知識詰込み型から考える方法を教えることへ。しかし、むしろ知識を教え、知識をより分ける方法を学ぶことが重要。だが、権威主義的教育という批判を回避するため、そこから新たな世界観を作ることは子供に任せている。以前よりも変化の速いこれからの時代の教育で最も重要なのは、変化に合わせて自分を変えていく能力と、そこで高まるストレスに耐える力。
現在の子供に教えられることは、「大人を信じるな」ということ。古い格言ではあるが、「自分自身を知れ」。アルゴリズムに縛られる時代になっているからこそ、それの一歩前を走りながら、自分は誰で何をしたいのかを判断出来るようになることが重要。
20, MEANING
人間は、人生の意味を求めるために、「物語」を頼りにする。宗教やイデオロギーは、人間の限られた人生を、それを超える大きなものに捧げることを促すことで、人々の心を捉える。ナショナリズムも、同じ(イスラエルの愛国教育の例)。しかし、悠久の宇宙の歴史を考えれば、その中での人類、宗教、国家の歴史等、ほんの僅かなもの。そうした「物語」に身を捧げる価値があるのか疑問。「物語」は人生の意味を与えてくれ、自分を包んでくれるかもしれないが、それは真実である必要はない。そして架空の物語をもっともらしく見せるために行われるのが「儀式」であり、一体感を強めるために必要なのが「殉教者」。モスレムの自爆テロリストは天国に行ったのにも関わらず、その犠牲に報復するという論理矛盾。そうした中での、自らの存在を選び取るリベラリズムの宣言。但し、「自由意志」に疑問がある中で、何が「真の自分」であるのか?国の消滅といった「物語」は全て空想の産物であるが、その過程での個人の「痛み」は現実。リベラリズムは、「物語」ではなく、「個人の痛み」を自らのものと捉えることを立脚点とする。
21, MEDITATION
著者の瞑想体験を通じての覚醒。一瞬でも現実を捨て、例えば自らの呼吸を通じて、自らの内面だけを感じる時間の重要性。脳は科学的に分析できるが、心はそれが出来ない。それでもアルゴリズムが心を支配してしまう前に、瞑想を通じて、我々は心をきちんと理解しなければならない。
以上が本文の要旨である。
まず第一章の4つの課題は、著者が特に前作のHomo Deusで展開した、テクノロジーやバイオ科学の発達により、労働市場に大きな変化が発生すると共に、近代民主主義が前提としていた、人間の自由意志や、平等が危機に晒されていることを繰り返したものであり、特に目新しい主張はない。そして続けて第二章では、いわば各論として、その政治、経済、社会的含意が、5つの課題に従って議論されることになる。
ここでの議論は、著者の専門外の議論で、正直、常識的な議論に終始しているという印象である。SNSによる「コミュニティー再建」というプロジェクトが、Offlineのコミュニティーを実現してこそ意味のあるものとなるというのも常識的であり、また「文明の衝突」やナショナリズムの持つ正負それぞれの側面も、ここで著者に指摘されるまでもなく、一般に議論されている。
やや面白いのは宗教に関する議論で、「神道を近代国家の建設原理とした日本が稀有な例を提供する」として、「神道による国家への帰依が、『神風特攻隊』という、最初の精密爆弾の開発を可能にした。結局、現在の北朝鮮も、こうした民族宗教による国民の国家(あるいはキム一族)への帰依を確保しようという点で、日本を真似ている。」と述べている点である。たかだか三世代に渡る程度の「キム一族」への帰依を促す北朝鮮の「主体思想」と、それなりの歴史を持つ天皇制を核とする神道を同列に議論するというのは、やや奇異に感じるが、アジアの外から眺めると、これらは同種のものに見えるのであろう。この見方は非アジアのインテリにとっては、日本の戦時期の全体主義が、アジア一般の宗教・文化的現象と捉えられていることを物語っている。こうした日本を含めた「アジア異質論=オリエンタリズム的発想」が、非アジアのインテリに依然存在していることは、我々は意識しておくべきだろう。
「宗教は、大衆が対象であるために、政治的な力と結びつき、世界規模の問題―核戦争、環境破壊、技術革新―に地球規模で解決を促す力となっていない。北朝鮮、ロシア、イラン、イスラエルといった国々も、宗教はナショナリズムと結びつき、個別国家の利益を誘導・確保する手段となってしまっている。そうした地球規模の問題と地域アイデンティティの相克は、リベラル理念に基づくEU統合で顕著になっている」というのも常識的な主張である。そして「人々の移動がより頻繁になったことにより、文化の相違が、より身近に感じられるようになる。その結果、移民問題が欧州で大きな課題となった」として移民問題を論じているが、受入れ賛成派と反対派の議論を整理しているだけで、さして新鮮な分析はない。
第三章の5つの課題の内、最初の二つ、テロと戦争に関する議論も、常識の範囲で、まあ「そのとおり」としか言いようがないが、その後の3つの議論は、著者による反宗教・世俗主義宣言として読むことができる。まず「12, HUMILITY」で、著者は自らの出自であるイスラエルとそこでのユダヤ教批判とも言える議論を展開した上で、自ら無神論宣言を行う。「神を信じなくとも、道徳的社会は形成できる。逆に神の名のもとに、非道徳的、残虐な行為が行われてきた。神を否定する必要はないが、世俗的思考を批判することもできない」という議論は、世俗主義に慣れた我々からすると、それほど衝撃的なものではないが、周囲のモスレム国家と政治的・民族的・宗教的に対立し、その中で求心力が必要なイスラエル国家の中でそうした議論を行うことは、たいへん度胸のいることであるのは確かである。もちろん、前二作で世界的な知名度を確立したことから、こうした発言もできるのであろうが、いずれにしろ、著者がこの国を去るのは時間の問題だろうという気がする。そして次の世俗主義宣言へと移っていく。ただこの「世俗主義宣言」は、「全ての宗教、イデオロギー、信条は負の側面を持っている。世俗主義の特徴は、そうした負の側面を意識し、完璧な思想はなく、自己の無知と無謬性を常に疑いながらゆっくりと改革を進めることにある」という「穏やかな世俗主義」であることで、衝撃度はさほど高くなくなっている。そして第四章の6つのテーマに移る。
ここでのテーマは、真理、正義、倫理そして自己とは何か、という、やや哲学的問いかけとなる。人間の判断は多分に恣意的であり、政治的、経済的な実権を有している者たちは、大多数の民衆の要求を知り得る状態にはないまま意志決定を下している、というのは言われるまでもない。そこでソクラテスが看破した「無知を知ること」の重要性が指摘されるが、それを前提にしつつ「正義」を選択することができるのか?その場合の「正義」とは何なのか?
「かつて個人的正義は、判断が容易―他人のものを奪うのは悪―であったが、現代においては、因果関係が複雑になり、判断が困難。自分が知らないところで、他人のものを奪った政府、会社に依存していることも多い」という当然の指摘が行われているが、それは何らの判断基準を提示するものではない。結局人々は、複雑化した社会で道義的判断をする4つの安易な方法―@単純化、A人間感情への訴え、B陰謀論、C教義(ドグマ)―に依存せざるを得ないのか?しかし、この4つは、その後議論されるフェイクニュースの問題の核心で、各種の宗教やナチス等の政治宣伝が災禍をもたらしてきた要因は、フェイクニュースをこの4つの条件を巧みに操り、人間の判断を誤らせてきたことにある。コカコーラの宣伝であれば、どんなに多くの人々が騙されようと、臍を曲げることは可能であるが、政治的なフェイクニュースは、それが強制的な画一化をもたらし暴走する危険があるが故に深刻なのである。著者が指摘しているように、「そうしたフェイクニュースによる洗脳を逃れるためには、@お金を払い、良質な情報源を見極めること、A良質なサイエンス・フィクションに接すること」ではあまりに弱いといわざるを得ない(映画「マトリックス」や「トルーマン・ショウ」、ディズニーのアニメ映画「インサイド・アウト」、そして古い作品ではあるが、オルダス・ハックスレイの「ブレーブ・ニュー・ワールド」等を知ることで、人間がアルゴリズムの罠に嵌る危険を認識することはできるが、個々の局面で、フェイクニュースに左右されない判断を行う助けにはならない)。因みに、「インサイド・アウト」で描かれた、脳内メカニズムの擬人化=アルゴリズムの集合としての人間という側面については、私が以前に新書で接した脳学者の大隅典子も、ブログで、科学リテラシー的な観点も入れてコメントしている。
こうして「回復力」と題された最終章に入る。まずは教育問題であるが、「以前よりも変化の速いこれからの時代の教育で最も重要なのは、変化に合わせて自分を変えていく能力と、そこで高まるストレスに耐える力」であることは、著者に言われるまでもない。しかし、「現在の子供に教えられることは、『大人を信じるな』ということ。古い格言ではあるが、『自分自身を知れ』。アルゴリズムに縛られる時代になっているからこそ、それの一歩前を走りながら、自分は誰で何をしたいのかを判断出来るようになることが重要」というだけでは、あまりに不十分である。そして同様に、リベラリズムの立場から、新たな時代に人間が「物語」に頼ることなく、どのように「人生の意味」を見出していけるか、という次の議論も、「『物語』ではなく、『個人の痛み』を自らのものと捉えることを立脚点とする」という陳腐な議論で終わってしまう。そして挙句の果ての最終節は、自らのヨガ体験で、「瞑想を通じて、我々は心をきちんと理解することができる」と結ぶことになる。
結局、この本では、現代のさまざまな問題が取り上げられているが、著者が主張したかったのは、自らの世俗主義宣言であったというのが、こうして改めて論旨を追いかけてみた後の印象である。もちろん、専門外の領域を含めた著者の該博な記載には敬意を払わざるを得ないが、多くの部分で、常識的な解説の域を出ず、また解決策に至っては、一般論に終始してしまったというのが正直な印象である。例えば、宗教対立が、多くの災禍をもたらしてきたことは事実であり、それが特に一神教が持つ不寛容という属性にあることは、誰でも分かっているが、ではその宗教対立を解消する具体的な提案はここにはない。それは移民問題や「文明の衝突」問題についても同様である。これらについては、この作品よりも、夫々の専門分野の著作が、より多くの示唆を与えてくれるのではないだろうか。そして最後のヨガによる「真の自己認識」という提案も、それまでの著者の「科学的」論述の延長上で見ると、やや跳んでおり、違和感を抱くことになってしまった。
そう考えると、現代の様々な問題の基本的な位相を確認するために、この著作に帰っていくことはあるかもしれないが、それぞれの問題に対する深い議論や解決策の模索は、別の個別分野を扱った作品や、それを参考にしての自らの「自由意志」によって検討されなければならないことを、改めて確認することになったのである。
読了:2019年5月3日