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21世紀の啓蒙ー書評
2020年3月20日 
 カナダ出身の、ハーバード大学心理学教授による、啓蒙主義とヒューマニズム擁護の大作である。年初に日本から来訪した友人から土産として頂いたが、その重量から、なかなか手を付ける気にならなかったが、前作を読み終えた後に、次第に悪化の一途を辿った新型肺炎の感染拡大により、生活が一変する中、時間の余裕もできたことから、ようやく読了することになった。現代の知識の最前線を巡る数々の議論が展開されており、以前に読んだハラリの3部作と比較しても見劣りしないたいへん刺激的な作品である。

 と言いつつも、内容はたいへん議論のあるところである。基本的には、現代社会の啓蒙が行き詰まっており、トランプのアメリカ・ファースト、ブレクジット、あるいはネオナチ勢力の拡大、イスラム・テロリストの頻発といった地域主義への退行やナショナリズムの拡大、あるいは宗教対立の激化といった動きが、近代啓蒙とヒューマニズムの危機を示しているという議論に対し、そうした動きは決して歴史的な大きな流れではなく、近代啓蒙とその理念―理性、科学、ヒューマニズムーは、依然人類にとって有効且つ唯一の統合理念であることを切々と綴っていくのである。

 そのため、上巻では、具体的な統計データを挙げながら、人類が、「啓蒙」に向かい進歩してきた、そしてこれからも進歩していくであろうことを、知識階級にはびこっている「進歩恐怖症」や、メディアの特徴であるネガティブな報道に起因する「利用可能性バイアス」等を批判しながら、論証していく。そして「世界の状況を正しく評価する」方法として著者が使用するのは「数えること」、即ち統計資料の数字を示すことである。こうして、平均寿命の延びから始まり、「健康の改善と医学の進歩(ポリオやギニア虫症等の感染症の根絶等―現在の新型コロナの感染拡大を、彼がどう見るか、というのは興味深い)」、「人口が増えても食糧事情は改善=科学技術の進歩によるマルサス人口論の無効化(著者は、遺伝子組換え農業を肯定する)」、「富の増大と貧困の減少(シンガポール人の私の義母は、子供のころには家族4人で一つの卵を分け合ったといっていた。富の増大の一つの要因は、「共産主義の衰退(?)」)」、「不平等は本当の問題ではない=格差問題は過大に問題視されている、何故ならそれは幸福を左右する基本要素ではない。『中間層の空洞化』は誤解で、アメリカの貧困は撲滅されつつある(?)」、「環境問題は解決できる=環境保護のもっと新しい概念=ロマン主義的衰退主義ではなく、啓蒙主義的楽観主義。気候変動は、例えば温室効果ガスの排出を最小限にしつつ、最大限のエネルギーを得る方法を科学技術で開発。原子力発電は世界で最も豊富で拡張可能な無炭素エネルギー源」、「世界はさらに平和になった=長期的な戦死率の減少、多くの内戦の終了、難民数や虐殺規模の縮小」、「世界は安全に=事件、事故は低減」、「テロリズムへの過剰反応=テロへの恐怖は、世界が安全である証し」、「民主化という進歩=国家による人権侵害の減少や死刑の減少等」、「偏見・差別の減少と平等の権利=現代化による「解放的な価値観」の定着」等々。

 下巻では、こうした個別分野での「啓蒙」の成果を受けた、より一般的な進化の基盤についての議論に入る。まずは知識と教育は社会を豊かにし、平和で民主的にするという平凡な主張。もちろん統計は、世界中における識字率の向上や教育水準の改善、そしてそれによる経済成長を示しているが、あくまで一般的な傾向で、その教育の内容までの議論には踏み込んでいない。「人間の本性として誰もが感じることのできる満足感や達成感を生み出す源としての『潜在能力』を発揮できる機会の増加。これは労働・家事等の生活維持のためにかかる時間の減少で可能に。また家族の時間は増え、遠くの人との交流も便利に。食事や文化の選択も多様に」。幸福論についての長々とした議論=自殺率や鬱病との関係など。「存亡に関わる脅威」としての、伝統的な「人口過剰、資源の枯渇、環境汚染、核戦争」、そして現代的な「ナノマシン、制御不能のロボット・人口知能、ネット・ヴィールス」等につき、悲観するのではなく、「解決すべき問題として扱う」こと。其々の脅威が、悲観論者の主張するような「人類の滅亡」などもたらさない、という数々の議論。感染症に関し、2002年にある学者が、「2020年までに、たった一度の生物兵器テロ、またはたった一度のバイオテクノロジーのミスで、100万人程度の死者がでるだろう」という、知者を相手にした公の賭けに出た。足元の新型ヴィールス(現状の死者数は、全世界で1万人超))が、これに該当するかは微妙だが、この賭けの結果は気になるところである(「あなたがこれを読むころには、どちらが勝ったのか、はっきりしているだろう」)。

 改めて「進歩は続くと期待できる」との議論。依然世界の一部には、貧困問題や劣悪な衛生、内戦被害者の群れ、教育不足や独裁国家での人権侵害、地球規模の環境問題が確かに存在する。しかし、啓蒙の理念―理性、科学技術、ヒューマニズムーに依拠して対応すれば、これから将来も、これらの問題の解決に向けた進歩は可能との主張。新たなテクノロジーとしてのスマートグリッドや医療分野でのリギットバイオプシー(液体生検)等は、確かに、私の身近でも研究・検討されているものである。

 異質な脅威としての「(権威主義的)ポピュリズム」の台頭。トランプ政権の個別政策に対する批判の列挙は、典型的な民主党の議論であるが納得できる。米国、欧州、その他地域でのこうした「(権威主義的)ポピュリズム」をもたらした社会的・経済的趨勢の基盤にある「(経済競争ではなく)文化競争の敗者=悲観論者=自国で優勢になっている現代的な価値観に疎外感を感じていて、文化的な進歩の潮流から取り残され、その文化的変化を共有できずにいる(高齢者)」の支持。従って、そうした支持は、時の流れの中で衰退するという期待。

 啓蒙の理念―理性、科学技術、ヒューマニズムーに対する理念的敵対勢力への批判。まず、「信念の共有地の悲劇=動機づけられた推論=評価バイアス」で、右翼・左翼の立場を信じている人間、あるいは専門家でさえが陥るバイアスについての心理学的説明。既往の立場に拘束されない「合理性」に基づいた選択の必要(「超予測者」の特徴)、「理性が信念の共有地の悲劇=党派性を緩和してきた」という通俗的な議論。政治の二極化と大学の政治化という問題(特に前者)。フェイクニュースの抑制要因としての、「ファクトチェック」の新たな規範も。

 科学蔑視の傾向は、中絶、進化論、気候変動といった政治化した争点の場合顕著(映画「不都合の真実」を、A.ゴアが主導したことで、環境問題に左翼のレッテルが張られてしまった)。科学批判の一例としてのフランクフルト学派の批判理論で、「科学(と理性及びその他の啓蒙主義の諸価値)に、文明と同じくらい古くからあるある罪を着せようとする活動で、その罪には人種差別、侵略、大虐殺などが含まれる」との批判。これは批判理論の「管理社会」批判と「道具的理性」批判を全く考慮していない短絡的な批判。他方、「科学と人文学の協力」こそが、狭義の「科学主義」の弊害からの脱出路である、というのは正しい。

 「ヒューマニズムの擁護」では、啓蒙主義(=功利主義)に基づく道徳観と宗教的(有神論)道徳との優越が議論の中心。神の存在証明に関わる批判=「神がいなくても人が生きる意味は見出せる」。また「イスラム諸国の停滞の原因は明らかに宗教」とするなど、「宗教批判」を徹底。他方で、「イスラム世界でもヒューマニズム革命は進む」という楽観論も。

 反啓蒙主義としての、ロマン主義の先方としてのニーチェ批判。いかなる集団よりも単独の「超人」を賛美するニーチェのロマン主義ヒロイズムが、特定の部族、人種、国家へすり替えられたのは必然。それはトランプの「知的ルート」でもある。またトランプには、「テオコンサバティズム(親権保守主義)=福音派など」という反動主義からの支持が加わる。「人の心に訴えかけるという点では、宗教、ナショナリズム、ロマン主義的ヒロイズムに及ばない」ヒューマニズムの正当性の道徳的および理性的な裏付けは、これに対抗できるのか?もちろん著者は、対抗できると答える。そして、それは「死よりも生が、病気より健康が、欠乏より潤沢が、抑圧より自由が、苦しみより幸福が、そして迷信や無知より知がいいという信念=啓蒙の信念」により乗り越えていかなければならない、と結ばれることになるのである。

 とにかく、多くの論点を喚起する著作であることは間違いない。そして、世界の進化のために、個人も集団や政府は、党派性を排除した、合理的、科学的な事実に基づいた意思決定を行わなければならないという主張は、全くその通りである。しかし、それにも関わらず、既に一部は、著者の議論を整理する中で触れたとおり、多くの個人的反論もある。ここでは、改めてそうした個人的違和感の主要なものを記載しておく。

 まず、前半の統計に基づく「進化」の確認。使用できるデータをいろいろな源泉から探してきて、それを基に、「統計的に進化が確認できる」と主張するのは、もちろん説得力があるが、例えば、著者が度々引用する欧州中世の様々な悪習―戦争、犯罪、児童労働、性差別、魔女裁判などを持ち出して、社会が進化している、と主張されても、はい、そうですね、としか言いようがない。そしてデータがより入手しやすい近代に至っても、当然ながら社会の動きは急速化し、欧米を中心とした経済成長も大きかった時代の統計は、著者が取り上げられている多くの分野で、余りに当然の事実を、再度確認しているだけに過ぎない。全体としての社会が、いろいろな意味で進化していることは言うまでもないが、だからといって問題がなくなっている訳ではないことも、著者が認めているとおりである。著者が批判しているのは、そうした問題を、あたかも解決困難であるかのように表現している、という点だけであるが、それは問題への危機感を強めるためのレトリックだと考えれば、両者にそれほど差はある訳ではない。それを主張するために、これだけの大著が必要だったのか、というのが率直な印象である。

 またそれ以上に違和感を感じるのは、ニーチェを始めとするロマン主義者やフランクフルト学派らモダニズム思想への反発である。例えば、ニーチェについては、もちろん彼の超人思想が、その後のナチズムを始めとする民衆蔑視の独裁政権に利用されたことは間違いないし、それは、フランクフルト学派等のニーチェ批判と異なるものではない。しかし、他方で、ニーチェの宗教批判は、著者がこの作品で行っている宗教批判とは比較にならないくらい厳しい時代環境で主張されたものであり、それが近代の世俗主義を生む契機となったことは間違いない。ニーチェの思想は、彼が理解しているような単純なものではないし、思想史の理解には、歴史的分析が必要であるが、著者にはそうした観点は全くないようである。また科学主義批判について、フランクフルト学派第一世代が主張したのは、その社会的機能を忘れ、「道具主義的」な技術に陥った科学が、政治の装具と化し、効率的な大量虐殺などに使用されてしまったことへの批判であり、また戦後の世界においては、権威主義国家、あるいは管理国家化に手を貸してしまうことの警告であった。その意味で、その第一世代であるアドルノやホルクハイマー、あるいは第二世代であるハーバーマスらが主張してきたことは、科学者が、その社会的責任を認識し、単なる研究至上主義に落ちることを回避しなければいけないという警告であった。その意味では、著者が主張する理性に基づく科学者の責任を、いち早く「啓蒙の弁証法」という形で表現したものであると言える。同じような一面的な評価は共産主義批判にも言える。スターリン体制がそうであったように、共産主義は、本来マルクスらが想定したような先進資本主義国ではなく、途上国で実現し、第二次大戦後も、生産水準の低い途上国の開発の思想として機能してきた(開発独裁)。それが歴史的、経済的に一定の成果を持ったことは事実であり、単に「共産主義の衰退により、富が増大し、貧困や飢餓が撲滅された」というのは、そうした歴史に無知な読者に誤解を与えるものである。またそれだけ共産主義を批判する割には、その思想で高度な経済発展を遂げた、そして国家としてその思想が生きながらえている中国についてのコメントが全くないのは理解できない。中国との対峙なくして、これからの世界は語れないことは明らかであるのだから。またそれはトランプ批判についても言える。トランプの発想や行動は、もちろん個人的には問題であると考える点では、私も著者と異なる訳ではないが、その中国政策に限ってみれば、もちろん、彼自身と言うよりも議会や官僚を含めた超党派での合意ということであろうが、中国の影響力に一定の歯止めをかけようという現在の政策は、決して否定されるべきものではないと考える。

 そして著者が最後に触れている、「ヒューマニズムは、人の心に訴えかけるという点では、宗教、ナショナリズム、ロマン主義的ヒロイズムに及ばないか」という点も、簡単に答えられるものではない。人間には、間違いなくこうした宗教、ナショナリズム、ロマン主義的ヒロイズムに惹かれる衝動が備わっている。どんなに知識人が、宗教、ナショナリズム、ロマン主義的ヒロイズムからの決別を促したとしても、それは簡単に払拭されるものではない。宗教については前述のとおり、ニーチェが時代に先駆け、極端な形で主張し、その後世俗化の流れは出来たとは言え、依然強力な磁力を持っているのは、米国福音派の政治的影響力や、モスレムへの帰依、あるいは先進諸国での新興宗教の隆盛からも明らかである。その中には、先週25周年を迎えたオーム真理教によるサリン事件のように、極端な行動に走る勢力もある。もちろんそうしたテロは、著者が指摘しているように、全体から見れば「小さな事件」であろうが、優秀な科学者がサリンの製造とそれによるテロに参画したというのは、「啓蒙の弁証法」を物語る重大な社会問題であることは間違いない。ポピュリスム隆盛に見られるナショナリズムへの回帰や暴力肯定のヒロイズム(例えば香港での学生らの暴力も伴う抵抗を著者はどう考えるのだろうか?)なども、単にヒューマニズムに基づき批判するだけでは問題の解決にはならない。その意味で、「合理主義者」の議論に往々にして見られる、分析の単純さから、この著者も逃れられていないと思われる。

 しかし、そうした違和感を抱きながらも、この作品が現代の先端的な知識を駆使した労作であることは間違いない。彼が提示した多くの問題は、間違いなく、これからの世界の行く末を見ていく上で、何度も反芻することになるのだろう。その意味で、この著者とこの著作を紹介してくれた旧友には感謝したい。

読了:2020年3月20日

(追記)

 4月10日、今回の新型肺炎での全世界の死者がついに10万人を超えることになった。上記の評でも触れたが、著者は、下巻154ページで、「2020年までに、バイオテロやバイオ事故で100万人規模の死者が出る」と予測したM.リース卿との賭けについて、「あなたがこれを読むころには、どちらが勝ったのかはっきりしていることだろう。」と書いた。今回の感染拡大が、(中国の)バイオ事故が原因であったかどうかは議論があろうが、基本的に彼の楽観論は、この部分では敗れたと見做さざるを得ない。彼が、今後これについてどのような見解を出すか、興味のあるところである。

2020年4月11日 追記