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2020年 シンガポール総選挙
2020年7月10日 
 2020年7月10日(金)、シンガポールで、私の滞在中3回目の総選挙が行われた。前回総選挙が、2015年9月11日(金)であったことから、今回も約5年振りの総選挙。来年4月までの任期を半年以上残したタイミングでの実施となった。

 言うまでもなく、当地も今年初めから新型肺炎感染拡大を受けた非常事態が続いていた。別掲の「シンガポール Covid-19 雑感」で記載した通り、当初は押さえ込みに成功したと思われたにも関わらず、ドミトリーに収容されている外国人建設労働者中心に感染爆発が発生し、結局4月7日(火)より、6月1日(月)までの8週間、「Circuit Breaker」という名前の「強制自粛」が導入されることになった。

 その後、6月2日(火)より、この「強制自粛」は解除され、例えば私自身の業務での出勤が、当局の事前許可不要になる等の解禁は行われた。しかし、通常への復帰までには3段階を経る、ということが発表され、その第一段階(Phase1)では、相変わらず外食は禁止、コンドミニアムを含めた各種スポーツ施設の使用禁止等は続いたのであった。

 ところが、当初は4週間、6月29日(月)まで続くとされていたこのPhase1は、突然6月16日(火)、この期間が短縮され、6月19日(金)より、Phase2へ移行することが発表された。Phase2では、外食やスポーツ施設も一定条件の下で可能になることから、我々庶民にとっては大歓迎で、私も直ちにその日の夜は、2カ月半ぶりの友人との飲み会に出かけたのであった(但し、レストランでのアルコール提供は、10時半に停止、ということで、自粛で弱った身体には有難い規制も残っている)。

 またPhase1に入り、6月7日(日)のリー首相に始まり、2-3日おきに、午後7時半から主要閣僚の演説がテレビ放送された。当初は、首相演説で、Phase2への移行時期等、実生活に影響のある発表が行われることを期待したが、首相演説のみならず、その後第一副首相Heng Swee Keat(ヘン・スイキェット)や第二副首相Chan Chun Sing(チャン・チュンシン)等主要閣僚のそれも、ほとんどが「1965年の建国以来の未曽有の危機を、国民全員で連帯して乗り切ろう」という精神論に終始した。そして以前から燻っていた、総選挙の前倒し実施という雰囲気が、メディアでも広がってくることになる。明らかにこの首相や閣僚の連続演説は選挙運動である、という思いが個人的にも強まったのであった。そして予想通り、6月23日(火)、改めてリー首相が議会の解散と総選挙の実施を発表することになった。公示日(Nomination Day) は6月30日(火)、投票日は7月10日(金)。前回同様、投票日は臨時の祭日ということになる。そして以降は、テレビ・ニュースや新聞も、新型肺炎の記事よりも、この総選挙の記事が圧倒的に多くなったのであった。

 6月30日(火)の公示日より、選挙キャンペーンが開始された。解散時の議会構成は、人民行動党(People’s Action Party―PAP)が89議席中の83議席、野党が前回勝利した5人選挙区であるアルジュニード(Aljunied)を含め、労働者党のみ合計6議席という状態である。今回の議員総数は93人に増え、各政党が4〜5人のチームで出馬する17の「グループ選挙区(GRC)」と、個人が立つ14の「単独選挙区(SMC)」で議席を争うことになる。今回の候補者総数は192人。前回に続き、選挙がすべての選挙区で投票が行われる2回目の選挙となる(それ以前は、故リー・クアンユーが率いるTanjong Pagarグループ選挙区では、野党の候補者グループに立候補はなく、その結果投票が行われたことはなかった)。また今回は新たな野党も加わり、11の野党が候補者を立てることになった。因みに野党議員については、従来から、落選したものの、得票率がより高かった候補に与えられる非選挙区選出議員(NCMP)という枠があるが、今回はその枠が現行の9人から12人に拡大されることも発表されている。

 従来からシンガポールでは10人以上が集まる政治集会は「許可制」になっており、野党は通常時は事実上公然たる政治集会は行うことができないし、新聞やテレビなどマスコミも実質的に政府管理下にあり、野党の主張が新聞等で取り上げられることも少なかった。更に今回は、「新型肺炎下」での選挙ということで、現状の外食等での制限人数である5人という基準が、選挙活動でも適用されることになっている。因みに、Phase2での社会的集会の5人という制限は、むしろこの選挙で最大の複数選挙区が5人であることから、選挙運動で候補者が一緒に行動できることを念頭に置いて定められたというのが、公然の事実である。

 与党人民行動党(PAP)は1965年の建国から国会で圧倒的な勢力を維持しているが、得票率でみると、2001年の総選挙(当時の首相は2代目のGoh Chok Tong)での75%をピークに、2006年の総選挙(2004年より現在のLee Hsien Loongが首相となっている)での66.6%、前々回2011年総選挙では60%と過去最低まで落ち込んだ後、前回69.9%まで戻すといった状態で、今回は、前回の回復傾向を維持できるかどうかが、一つの争点である。

 今回の選挙に当たっても、いくつかのトピックスがあった。まず、今回新たに参加する野党である前進党(Progress Singapore Party、24人の候補者を擁立)に、リー首相の弟であるリー・シェンヤンが入党したこと。言うまでもなく、彼と妹であるリー・ウェイリンは、故リー・クアンユーの政治活動の場であったOxley Roadの自宅処理を巡り、兄のリー首相と対立し、現在まで、この家を保存するか解体するかという論争(「兄弟喧嘩?」)に決着がついていない。こうした中で、今回の選挙で、彼が野党に参加したことの影響がどう出るかは大きな関心である。因みに、彼自身は、入党はしたが、「政治活動からは距離を置く」ということで、出馬はしていない。

 与党PAPでは、まず選挙前に、一旦候補者として選定した30代の若手候補に、ネットでスキャンダル(軍隊勤務時代の賄賂疑惑等)が持ち上がり、公示直前に候補を辞退するという事件があった。リー首相は、PAP候補者につき、危機に対応するため、国民の多様性を代表するメンバーになっていたと胸を張り、この候補者についても「潔白と信じているが、それを証明する時間的余裕はないので、むしろ辞退した本人の判断を評価する」とコメントした。しかし、この候補者以外にも、与党候補者に対するネットでの攻撃は多かったようで、その意味では、ネットの普及もあり、以前に比較して与党候補者といえども安泰ではなくなった、ということを示すことになった。また、次期首相の最有力候補と目されている現第一副首相兼財務大臣であるHeng Swee Keatが、従来から10年拠点としてきた東部のタンピネス(一人区)から、激戦が予想される近隣のイースト・コースト(複数区)に移ったのも、次期首相の座をかけた試練と見做されている。この選挙区では、前々回の選挙で野党から立候補して善戦したNicole Seah(ニコル・シア)という女性候補が出馬している。彼女は、24歳であった2011年の選挙(2回前)で、国民連帯党(National Solidarity Party-NSP)という野党から出馬し、自分の貧しい出自を語りながら、底辺の生活の引上げを熱烈に訴えたラリーでの演説で、メディアの寵児となったが、結果的には落選した(別掲の、2011年選挙報告をご参照)。その後、バンコクでビジネスを行ったりした後結婚し、現在は一児の母親ということであるが、今回この選挙区で労働者党のメンバーとして政界復帰している。Heng Swee Keatの選挙区替えが、この女性候補が出馬したことによるのか、あるいはHeng Swee Keatが移ったので彼女が担ぎ上げられたのかは不明であるが、いずれにしろ興味ある戦いになると予想される。前2回の選挙で労働者党が勝利した(前回は薄氷の勝利であった)アルジュニード(複数区)を労働者党が死守できるかどうかと併せて、この二つの選挙区が注目である。他方、大物議員の引退も報道されており、中でも前首相ゴー・チョクトン(Goh Chok Tong、79歳)の引退が特記される。

 こうして、7月8日までの選挙運動が行われた(7月9日はCooling-Off Day)。今回の選挙運動では、予想通りではあるが、コロナ対策の巧拙や悪化している景気・雇用対策が争点となった。個人的な印象ではあるが、今までのこの国の選挙に比べると、野党の主張や活動にテレビや新聞がスペースを割いていると感じられるのは、この国のメディアの許容量が増してきたことによるのか、あるいは野党が乱立してそれがお互い足を引っ張っているから与党にとってあまり脅威ではない、という判断からなのかは分からない。選挙運動最終日の8日には、与党及び主要野党3党(労働者党-WP、前進党-PSP、シンガポール民主党-SDP)党首によるTV演説会等も開催された。但し、私のような傍観者にとっては、コロナ対策にしても、景気・雇用対策にしても、各党で政策に大きな差があるようには見えず、野党も単に、一般的な与党の批判票を期待しているだけのような印象は免れない。その意味では、繰り返しになるが、今回の野党の「乱立」は、日本の現状と同様、野党票の分散となり、与党を利するだけであろうと感じられる。また既述のような新型肺炎対策から、大規模な選挙集会が開催されないことから、TVでの演説を除くと、選挙運動は、有権者が多い公営住宅の屋台街、あるいは個別訪問での訴えが中心で、以前にも増して「ドブ板」的な色彩が強かった。

 7月10日(金)午前8時から午後8時までの投票が行われた。投票も、集中を避けるために、投票所を前回の880か所から1100か所に拡大したり、65歳以上の高齢者は早朝の投票を促すなど、新型肺炎を考慮した対策が取られることになった。しかし、それにも関わらず、感染対策により投票に要する時間がかかったことから、各投票所には長蛇の列ができたようである。それもあり、突然夕方に、投票締切り時間が10時まで延長になる、という、これも史上初めての事態も発生した。今までの選挙報告にも書いたとおり、当地の選挙で投票を行わない場合には、次回選挙のための再登録が必要になるが、その際、例えば海外出張中であったといった「合理的な説明」を求められ、これが認められない場合にはその登録のためにS$50の「罰金」を支払う必要があり、更にこれを払わない場合は、投票権を失うということになる。しかし、投票所の混雑で投票ができなかったということになると、この制度自体も見直す必要もあることから、急遽、この投票時間延長策が取られたと考えられる。そしてその結果、開票作業も遅れることから、各党も、選挙結果を受けた候補者がコメントを出すタイミングも再考せざるを得なくなったのであった。

 そして、翌11日未明、全ての議席が確定することになった。投票率は96%。与党PAPが93議席中の83議席を確保したものの野党・労働者党は、アルジャニード(Aljanied、5人区)とホーガン(Hougang、一人区)の議席を守った上、センカン(Sengkang、4人区)で新たな勝利を獲得し、合計10名の議席を獲得することになった。他の主要政党である前進党-PSPとシンガポール民主党-SDPの議席獲得はならなかった。それでも、野党議席10人というのは、前2回の6議席を上回る、この国の選挙では史上最多の議席数である。また全体の得票率でも、PAPは、61.24%と、市場最低であった2011年に近い水準に落ち込むことになる。

 個々の選挙区では、リー首相の地盤であるアン・モキオ(Ang Mio Kio)複数区ではPAPは72%の得票で野党を圧倒したが、上記のとおり、次期首相と目されるHeng Swee Keatが直前に選挙区替えを行ったことで注目されたイースト・コースト複数区ではPAPは勝利したものの、得票率は53%と、前回よりも7%落とすことになった。これが、前述の若手女性候補効果であったのか、あるいはそれにも関わらずHeng Swee Keatが善戦したという評価になるかは、彼の次期首相としての信認に大きく影響すると思われる。また別の激戦区であったウエスト・コースト複数区でも、PAPは52%と、薄氷の勝利であった。

 こうした結果を受け、与党側は、11日早朝6時にリー・シェンロン首相が、5人の主要閣僚と共に勝利宣言(マレー語、中国語、英語)を行った。リー首相は、新型肺炎による大きな危機の時代に、新たな国民の負託を得たことに大きな責任を負うことを語ったが、同時に、結果は必ずしも期待したものではなかったこと、そして労働者党の健闘も讃えることになった。
 
 今回の選挙結果も、概ね予想の範囲と言える。直後のTV解説では、やはり新型肺炎拡大による経済・雇用への不安が、野党票に流れた、という見方であるが、それも限定的であったのは、引続き与党に対する国民の信任の結果と言える。政権運営は、引続きPAP主導で行われ、今後ますます悪化が予想される景気と雇用に彼らがどう対応していくかが今後の焦点となる。定例の独立記念日まで一カ月を切ったこの時期の総選挙であったが、引続き新型肺炎が影を落とす中、この国民式典をどのように盛り上げていくかも興味あるところである。

 尚、投票締切りが2時間延びたこともあろう、今朝は現地新聞も通常時間には配送されていない。新聞配送後、また追加の情報も加えるということで、まずは本件、速報ベースの報告とさせて頂く。

2020年7月11日早朝 記

(追記)

 選挙後の当地での報道によると、イースト・コースト複数区(5人区)では、労働者党は同選挙区で2006年の総選挙以来、連続で候補者を擁立してきたが、敗北が続いていた。しかし今回は、前述の Nicole Seah が出馬したことで危機感を頂いたPAPが、最後の瞬間に Heng Swee Keat の投入を決めた、ということであったようだ。そしてその結果、PAPが、何とかこの選挙区を守ったということである。

 それでも、この得票率(53対47の接戦)、そして前回よりも7%落としたということが、Heng Swee Keat のPAP内部での信任に与える影響は無視できないと思われる。

 またセンカン複数区(4人区)でのPAPの敗北については、@労働者党が26〜44歳と若手候補で臨んだこと、Aその候補の一人のJamus Lim(ジェイマス・リム)が、選挙活動中に出演したテレビの討論番組でPAPのビビアン・バラクリシュナン外相を相手にした立ち回りが評判となったこと、そしてBこの選挙区の有権者数は12万人余りであるが、公団住宅(HDB)に暮らす若い夫婦を中心に、住民の6割強が45歳未満、20人に1人以上が5歳未満と全国平均より若さが際立っていることから、そうした世代の変化を求める意向が反映された、といった点が後付け講釈で言われている。PAPは、全国労働組合会議(NTUC)書記長で党の次世代を担う第4世代(4G)指導層の一員として活躍が期待されたNg Chee Meng(ウン・チーメン)首相府相(51歳)や、Lam Pin Min(ラム・ピンミン)上級国務相(運輸・保健担当)(50歳)といった有名候補を送り込んだものの敗北することになり、リー首相をして、「第4世代の期待の星が敗れたことは残念」とコメントさせることになった。ウン以下は早速次回の議席奪還に向けた活動を始めたということであるが、彼らが今後政治家として復帰できるかどうかは、現時点では不透明である
 
 こうした結果につき、識者からは、「若い有権者の期待は、前世代と異なる点にあり」、生活に直結した分野だけでなく、民主主義のより自由な形態や権力者に対する「けん制と均衡」の実現を支持する新たな価値観を取り入れつつある、との声も聞かれる。現在の香港の状況などが影響している、という見方もあるが、そうした傾向が、この国に定着するかどうかも、今後注目される。  

2020年7月14日 記  

(追記2)

 センカン選挙区で労働党に敗北したPAPチームのリーダーであるNg Chee Meng(ウン・チーメン)首相府相兼 National Trade Union Council(NTUC)議長(Secretary-
General)につき、NTUCは、14日、彼が引続きNTUC議長に留まることを発表した。コメントでは、「NTUCでの彼のポジションは、議員の立場とは独立して任命されたものであり、NTUCは彼が議長として留まることを全員一致で支持する」とされた。このポジションは、過去40年、閣僚が務めてきたことから、今回この慣行は破られることになったが、Ng Chee Mengは、その政治生命を維持することになった。

 また落選したものの、得票率がより高かった候補に与えられる非選挙区選出議員(Non-Constituency MP-NCMP)には、ウエスト・コースト選挙区で、得票率48.5%と善戦した前進党-PSPから2名が選定されることになった。今回12名に増やされたNCMPであるが、本選での当選者と併せて12名ということなので、既に本選で当選した10名の労働者党議員と共に、12名の当該枠が確定することになった。

2020年7月15日 記