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川崎通信
リベラル・デモクラシーの現在
著者:樋口 陽一 
 1934年生まれの憲法学者による2019年12月出版の新書で、護憲派の立場から日本が戦後に享受してきた「リベラル・デモクラシー」を、世界的に台頭しつつある「ネオリベラル」や「イリベラル」から守っていくべきと論じている。著者は1979年に最初に出版した新書で、戦後日本が拠り所にしてきた近代化論を念頭に置きながら、日本国憲法を論じ、次に1989年に出版した新書で、日本の近代化の終了とリベラル・デモクラシー=立憲主義の定着を感じ、1999年出版の新書で、改めてそれを確認したということである。しかし、21世紀に入ってからの世界及び日本の動きは、そうした楽観論を戒める方向に動くことになる。それは欧米における「ポピュリズム」の台頭や、日本における自民党による改憲論として顕在化しているとし、著者はそれを改めて憲法学者の立場から、「人権」と「立憲主義」、そして敢えて付け加えれば「平和主義」を守るという議論を展開することになる。

 「リベラル」と「デモクラシー」は別次元の概念である。それは「デモクラシー」の名のもとに独裁国家を創ったナチスや、近時の「ポピュリズム」がまさに民主的な選挙に依拠して台頭していることでも明らかである。そしてそうして成立した政権が、「リベラル=人権」を抑圧していく例を、我々は歴史上何度も目撃してきた。足元ロシアで独裁権力を固めるプーチンでさえ、現在まさに投票が行われている大統領選挙で、「民意」の圧倒的支持を得ることを目指していることでもそれは示されている。ナチスと同様に、民意に基づき選挙で支持され選ばれた政権が、その民意の基盤である個人の「人権」を抑圧していく、という皮肉が改めて繰り返されようとしているのである。「リベラル・デモクラシー」は、それにどのように立ち向かうのだろうか?

 著者は、1215年のマグナ・カルタやフランス革命の人権宣言を含めた西欧での「主権」、「法治主義」や「立憲民主主義」の歴史を振り返りながら、日本での明治憲法、そして戦後の現行憲法制定(「リベラル・デモクラシー体制」の成立)に至る歴史を振り返っているが、これは一般論の復習である。言うまでもなく、「リベラル」の核心は、憲法13条の「個人の尊厳」保護であり、それを「生存権」、「労働権」、「教育権」といった各種の「社会権」で保護すると共に「経済活動の自由」で裏から支えるという形をとる。その場合、後者については「公共の福祉」に基づく制限が憲法上も明文化され、それに基づき独占禁止法などの法律が制定されることになる。他方で「デモクラシー」については、戦後は選挙という「古典的」な「個人の自己決定」という概念と、マルクス主義の「社会集団の自己決定」が対立するが、1989年、一旦はそれが、戦後日本も依拠する「古典的」デモクラシーの「普遍化」で落ち着いたかに見えたのである。

 しかし、その後の展開はそう簡単ではなかった。それは一方では、「国家の出番を制限する」という「ネオリベラル」として、他方では「ポピュリズム」に示される「民主的手段」を通じた移民排斥といった「人権への制限」として、特に2001年の9.11同時多発テロや2008年のリーマン・ショック以降顕在化する。そしてそれは日本では、自民党による憲法改正論議という形を取ることになる。以降、著者は、そうした動きを「リベラル・デモクラシー」の立場から批判していくことになる。

 詳細な議論は省略するが、結局戦後の欧米や日本の政治は、「社会的公正を掲げる政党と経済的自由の強調を掲げる当事者(あるいは政党)」とのせめぎ合いで展開してきた。その距離が近い間は、それなりに政治は安定してきたが、21世紀に入り、その二つの立場の距離が乖離してきたことが現在の問題となっているということになる。確かに、米国の「ネオリベラル」の主張は、それまでの社会的公正の立場から押さえられていた「経済的な公共性の制約」を緩めようとする動きであった。それに対し「リベラル」側は、「ネオリベラル的な前提を事実上受け入れた上で利益の再配分を主張するという、難しい局面に立たされてきた」。そして今度はそれに対し、米国での妊娠中絶問題や英国の「EU離脱」、あるいは欧州での移民排斥などを主張する「イリベラル」が台頭することになるが、著者はこうした動きを、「所得の再分配という難問から価値問題にシフト」し、「多文化主義に対する抗議を文化戦争として仕立て直す」動きであったと見る。そしてこうした動きが「ポピュリズム」という、「デモクラシー」又は「デマゴギー」という形を取っていることが、現在の問題であるとする。そして日本の場合には、こうした「多文化主義対自国第一主義」といった対立は起こらなかったものの、防衛問題を中心にした「憲法改正問題」という形で、「リベラル・デモクラシー」への挑戦が出てくることになる。

 こうした「リベラル・デモクラシー」擁護を、著者はまず日高六郎の「集団に対する義務の他に自己に対する義務がある」という議論で確認しようとしている。日高によると、戦後日本の大勢は自民党一党支配という形をとりながらも、それなりに野党に対する「寛容と忍耐」が示されてきた。それが憲法9条に関わる対応にも反映されてきた。しかし21世紀の今、安倍前政権は、「(民主党)の前政権を悪夢」と断じ、強権支配に転じ、憲法改正も推し進めようとした。そこでは我々は改めて日高の主張した「(日本国憲法を)日本国民は大日本帝国に対する懲罰として受け入れた」、そして「それを受入れるための素地が幕末まで遡る日本近現代史の中にあったのだということを確認する」ことに思いを馳せるべきとする。その背後には、「個人の尊厳」を守るという、戦後日本のリベラル・デモクラシーが依拠してきた価値観が示されているのである。そして2012年に自民党が公表した「日本国憲法改正草案」が取り上げられることになる。著者は、この草案が、「現憲法の基本的性格となっているリベラル・デモクラシーに対して(中略)ネオリベラルとイリベラルの組合せを対置したもの」と見て、この草案を批判していくのである。

 その問題点として著者が挙げているのは、@表現の自由を含む国民の自由や権利の制約については、そうした法律が裁判で個別に争われるのに対し、改正案では憲法自身にその制約が書き込まれている、A経済活動への制約についての制約が、「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」という表現に弱められている、B「個人」という表現が減り「人」という(より曖昧な)表現に変更、C9条関係では「国防軍」が明示されると共に、「戦争の放棄」から「安全保障」への変更と「自衛権」の明記される等々。これらはまさに「戦後レジームからの脱却」という名の下での「戦後リベラル・デモクラシーからの離反」であり、著者は容認できないとするのである。ただこの議論が今後どのように展開するかは、最終的には内閣支持率も含めた政権指導者に対する国民の動きであるとして、著者は最後に日本の「ポピュリズム」について触れてこの議論を終えることになるのである。

 2024年の現在、日本及び世界情勢は、この著作が出版された2019年とは大きく変わっている。もちろん米国では今年11月の大統領選挙でのトランプ勝利の可能性はあり、その「もしトラ」が起こると、それが変化をもたらす可能性は残るとは言え、現状ではウクライナやガザでの戦争、あるいは東アジア海域での緊張の高まりが、移民問題などの、ネオリベラルやイリベラルの基本主張の表面化を抑えている。更に日本では、安倍元首相の死後、「強い」指導者を失った自民党が、足元政治資金問題の対応等に忙殺され、憲法改正にはとても手を付けられる状況にはなっていない。その意味では、著者がここで抱いた懸念は、足元は後退しているように思える。

 ただ当然ながら政治情勢は刻々と変化する。米国においては「もしトラ」による自国第一主義の強化、欧州においてはウクライナ戦争長期化による厭戦感の広がり、そして日本では中国の脅威が高まることによる安全保障意識からの「9条問題」の顕在化といった不安は潜在的に存在する。その意味で、現行憲法維持という「リベラル」の立場の私自身としては、ここでの著者の議論は、改めて肝に銘じておく必要がある。かつて大学時代に、小林直樹教授の講義で接した日本のリベラル憲法学に、約半世紀振りに接した著作であった。

読了:024年3月13日