寺澤行忠「西行」を読む
著者:寺澤 行忠
現在ボランティアとして協力している横浜日独協会(以降「協会」)の役員に、70歳後半くらいで「先生」と呼ばれている温厚な紳士がいる。協会では、百人一首を解説する会を開催したり、足元は徳島にある第一次大戦時の旧ドイツ人収容所などを訪問する旅行を計画する活動等をしているが、その彼が今年初めに開催されたある会合時に、自分の著作が出版されたということで、役員数名用に持参されたのがこの本である。その場に居合わせた私も、彼の署名を貰ったその本を頂戴したが、なかなか手を付けられず、また読み始めてからも断続的になってしまったが、今回ようやくそれを読了することができた。その著者説明から、彼は1942年生まれ(ということなので、私より一回り上の82−3歳というところ)の元慶應大学教授で現在は名誉教授、専攻は日本文学・日本文化論であることを知った。ドイツとの関係では「ドイツに渡った日本文化」という著作もあるようだ。
私がなかなか読み進められなかったは、もちろんそのテーマが平安末期から鎌倉時代に生きた西行という、私が特段関心を持つことがなかった人物であったことが要因であり、自分の知人から貰うことがなければ、手に取ることもなかったことは間違いない。ただ今回のNHKの大河ドラマが紫式部を扱っていることから、3月の京都旅行時には、この関係施設を回るツアーに参加する等、私の中でのこうした時代への関心はそれなりに高まっていたことも確かである。日本の古典文化とそこでの一人の人物の軌跡を改めて見ることにしよう。
佐藤義清改め西行(1118−1190年)は、平安末期の藤原氏系列の貴族の家系に生まれた(平清盛と同年の生まれ)後、23歳の時に出家し、以後は高野山等で仏門に入ると共に、奥州や西国・四国などへの旅を含めた気ままな人生を楽しみながら、多くの和歌を残すことになる。著者は、その西行の人生を、彼の残した多くの和歌を参照・解説しながら、これまでの各種関連研究も参照しつつ辿っていくことになる。
まずは出家であるが、恋愛説などもあるが、その理由は本人もあまり語らず、推測の域を出ないという。そして出家前から親しんでいた初期の和歌からは、彼が若い頃から蹴鞠や桜といった日本の情緒を愛好したことを知ることができるという。そして人生で繰り返した多くの旅とその過程で読まれた歌。当時の旅は大きな困難を伴うものであったことから、「気ままな人生」とは書いたが、ある種の「修行」であったということではある。西行の奥州への旅は、半世紀後、同じ地域を回った芭蕉の「奥の細道」でも言及されているということである。そうした旅を含めた自然への愛情や、修験道の本山である大峰山(今回初めて知った名前であるが奈良県の最高峰で、現在でもここでの修行が行われているということである)での厳しい修行の様子など。面白いのは「地獄絵を見て」と題された27首の連作があるということであるが、これはボッシュが絵画で表現したものを、日本人は和歌で表現したという理解ができるように思われる。
前述のとおり平清盛とは同年生まれで若い頃は面識もあったようだ。そして西行が平家に対しての親愛の情が深く、その後権力を握った源氏に対しては、頼朝と会ったこともあるが好感を持てなかったとされている。また仏門に入ったにも関わらず、伊勢神宮などには度々参拝した折に読んだ歌も多く残しており、日本人の神仏混交を体現しているという指摘も見られる。そして、晩年の、自分の秀歌を選んで奉納するといった「終活」から、69歳での最後の奥州への旅と、72歳での静かな死(示寂)。「示寂」というのが、「菩薩(ぼさつ)や有徳(うとく)の僧の死」を意味していることも、今回初めて知った。そして、同時代の歌人藤原定家と西行の比較や、定家が百人一首に、西行の多くの歌の中から選んだ「歎けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな」を選んだ理由など。かつて少年時代に百人一首に親しんだ私も、意味は分からなかったが、この歌を覚えている。これが西行の歌であることは今回初めて認識したのであった。そして本の最後は、前にも記したが、西行の軌跡を追って約500年後に奥州を旅し「奥の細道」を著した芭蕉など、西行が後世の歌人たちの及ぼした影響を語ることになる。
日経新聞に掲載された本書の書評で、詩人の小池昌代が、「本書には、西行を読む人(著者)の静かな情熱を読む感動もある」と記している。確かに、これだけ多くの歌を、夫々が読まれた状況を踏まえながら、味わっていく姿は、「静かな情熱」と言うにふさわしい。他方、私の様に、そこまでこうした歌に思い入れのない人間から見ると、その姿勢はマニアックすぎて、途中でやや飽きてしまう。そんなことで、途中の和歌の解釈の幾つかは飛ばし読みしたにも関わらず、読了する迄結構時間がかかってしまった。私の読書傾向とは全く異なるこうした著作に接したというのも何かの縁であることを感じながら、そうした縁がなければ読むことのなかった著作であった。
読了:2024年5月1日