地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録
著者:J.ル・カレ
2016年に原作が、そして2018年に邦訳が出版された著者の自伝である。これまで多くの著者の小説を読んできたが、そうした小説の執筆動機や登場人物のモデル、更には執筆のための取材活動といった背景に加え、著者の作家になるまでの経緯や、父親との確執といった個人史まで幅広く触れられており、彼の小説と同じくらい、あるいはそれ以上に面白く読み進めることになった。
まずは、彼の略歴であるが、10代の後半に英国のパブリック・スクールを逃げ出し、スイスはベルンに移り、そこでベルン大学に進んだ後、再び英国に戻りオクスフォード戻ることになる。そしてその間にドイツ文学に魅了されると共に、英国諜報部であるM15に採用され、その後MI6に移り、旧西独ボンを中心に外交官として勤務するが、その時代に書いた「寒い国から帰ってきたスパイ」がベストセラーとなったことから職業作家として独立し、その後多くの作品を出版することになったということである。その学生時代を過ごしたベルンには山小屋を建て、そこで多くの作品の執筆や関係者との交流が行われたようである。
まずは下級外交官兼諜報員として3年ほどを過ごした、戦後間もない時期のボンを起点とするドイツで体験した事項やそこで出会った印象的な人々の回想。その頃、既にベストセラーとなった「寒い国から帰ってきたスパイ」を書き上げていたようで、同様の経歴を経たG.グリーンといった作家が「守秘義務」で当局と揉めたりしたことに触れながら、自分も政治家などから様々な諌言を受けたようである。また当時のドイツでナチス嫌疑から巧みに逃れ戦後のドイツ社会で活躍するプルプケ等へのコメント。著者は、こうした人々を参考にしながらも、あくまでフィクションとして作品を書いていったことを強調している。
彼が小説のモデルに使った人々の中でも特に詳細に紹介しているのは、ムラット・クルナズというトルコ系ドイツ人で、彼はパキスタンで逮捕された後、5年間グアンタナモ収容所に収容され、そこで拷問に合いながらも最終的に解放されることになる。2006年の彼とのインタビューを経て、著者の「誰よりも狙われた男」が書かれたという。
著者の世界各地への取材旅行も面白い。最初の旅は1974年の香港で、これは「スマイリー3部作」の2作目以降に反映されるが、その後、カンボジア、ベトナム、イスラエル、パレスチナ、ロシア、中米、ケニア、東コンゴ等々と続くことになる。その2作目で主人公となる男は、シンガポールはラッフルズ・ホテルで最初に出会った長身のジャーナリスト兼諜報員がモデルになる。またクメール・ルージュ攻勢下のカンボジアで知り合った、民衆に食料や衣料品を配布する活動を行った後、コソボで同様の活動中に事故死した女性には、その死の知らせを聞いた際に執筆していた「ナイロビの蜂」が捧げられる。「リトル・ドラマー・ガール」の取材で、1980年代初めにアラファトにインタビューする経緯とその後の彼との交流の逸話の数々も特筆される。あるいは、アラブ・テロリストに身を捧げ、ナイロビでのエルアル航空機爆破未遂で逮捕され、イスラエルの刑務所で服役しているドイツ人女性との面談。彼女の口から影響された人々として語られるのはハーバーマス、マルクーゼ、ファノン等お馴染みの名前。刑務所の女所長は、ドイツ語はできるが彼女とは英語でしか話さないという。その所長はダッハウ収容所の生存者であることが分かる。現在のイスラエル・ハマスの戦争の陰にもある現代史の皮肉がここでも示されている。
常に彼の小説の背後にあったソ連・ロシアへの訪問はまずは1987年、ゴルバチョフ改革下。KGBの監視者の下でのサハロフとの面談。サハロフがゴルバチョフから直接かかって来た電話を一方的に切ってしまった話等。そして次は、壁が既に崩壊した後の1993年のモスクワ。そこでは既に力を持ち始めていたマフィアの富豪とその関係者と会うが、その経験は彼の「われらのゲーム」、「シングル&シングル」、そして「われらが背き者」に使われたという。マードックとの交流と、彼との間で交わされたR.マックスウェル死亡事件を巡る対話は、J.トンプソン事件を思い出させるものである。同じ年にモスクワで会った、ゴルバチョフからKGB解体を命じられたが、その後プーチンにより退けられたバカーチンや、同じ頃ロンドンであった、バカーチンよりも世渡りの上手かったKGB出身の外相(当時)プリマコフとの対話。壁崩壊後の移行期にあったロシアの実相を知る意味で面白い話である。その他、イタリア大統領やサッチャー首相との面談、会食など、著名作家ならではの機会も紹介されているが、それらは決して自慢気な記載ではなく、むしろ政治家たちを皮肉るものになっているのはさすがである。
そしてキム・フィルビーの長年にわたる親友で、結果的に彼の裏切りを明らかにしたニコラス・エリオットとの対話。これは彼の「スマイリー三部作」の背景でもあり、また別に読んで、ここでも引用されているマッキンタイアーの著作(別掲)でも詳細に描かれている話である。エリオットの苦悩に対する著者の思いやりを感じさせる記述になっている。
「ナイト・マネージャー」に使われたパナマとの関係、あるいは「ミッション・ソング」の舞台となった東コンゴ等。これらの地域は私が足を踏み入れたことのない(そして今後も訪れる機会はないであろう)地域であるだけに、著者の経験は貴重である。
彼の著作の映画化を巡る幾つかの裏話などを経て、最後に彼と父親ロニーとの関係が詳細に語られる。「パーフェクト・スパイ」のモデルであるロニーがとんでもない破天荒な人生を歩んだ様子、そして著者が彼の重荷を常に背負っていたことが語られている。英国紳士然とし、周囲の人々を魅了しながらも、他方で稀代の詐欺師で、何度も逮捕・収監されたロニー。そして著者が著名になってからもそれを徹底的に利用し、著者を悩ませたロニー。著者の人生は、ある意味、この父親の反面教師としてのものだったようである。もちろん著者の才能自体は、この父親から相当なものを受け継いでいるのだろうが、著者はそれをまともな形で社会に還元したということであろう。因みに、母親は著者が幼い頃にロニーに嫌気がさし、彼と兄をおいて家を出る。以降著者は21歳の時に再会したが、ほとんど疎遠で、彼は彼女が養護施設で亡くなるまで母という感情を持てなかったようである。
ということで、既に読んできた彼の作品の背景について理解を深めると共に、まだ読んでいない彼の作品を読む強い動機も与えてくれた。今は別の作家の似たような小説を読んでいるが、また近いうちに彼の作品に帰っていくのだろうと感じている。
読了:2024年6月2日