アジア・ドイツ読書日誌と
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川崎通信
モンゴル旅行記
2024年9月2日ー6日 
 2024年の夏、日本が猛暑でうだっている中、モンゴルに避暑旅行をすることになった。HISアレンジの気楽なパッケージ・ツアーである。そして「海外」への観光旅行としては、コロナ禍の直前の2020年1月、シンガポールから訪れたスリランカ以来、約4年半振りのものである。

9月2日(月)

 今回のフライトは、成田空港午後2時45分発のモンゴル航空(OM502便)。ウランバートルの予定到着時刻は午後7時15分とあるが、約5時間半のフライトで、時差は1時間ということになる。

 モンゴルは初めての訪問である。モンゴルというと、昨年公開された、堺雅人や役所広司、阿部寛らが出演したTVドラマ「VIVANT」が話題となったようであるが、私自身はまだこれは観ていない。ただアジア地区で私がまだ足を踏み入れたことのない国で、かつて滞在したシンガポールよりも日本からの方が近いこともあるので、今回の旅行になった次第である。出発にあたり、モンゴル関係の概説書を2冊読みこむと共に、最新刊の新書1冊を携行し、旅行中時折眺めることになった。

 機内の横に座った一人旅っぽい中年男性と話して見ると、彼はJames Skinnerという富豪がアレンジした「経営塾」の合宿で、10日間モンゴルに滞在するという。搭乗口でギターを抱えた白人がいたが、彼が主催者の合宿であるが、モンゴルで「経営塾合宿」というのも、変わった企画である。これからモンゴルのどこに行くかは、行ってからのお楽しみだ、とのことであった。

 略予定時間にウランバートル空港に到着。入国もスムーズで、出口で待っていた女性ガイドのジャガさんと合流し、他のメンバー合流の待ち時間に、若干額の現地通貨を調達した。5000円=111、300トグルグ。現地価額を23で割ったのが大凡の円金額。ツアーの客が揃った8時頃に小型バスで空港を出発した。ツアー客は合計12人。男性は、私ともう一組の夫婦の男性2人だけで、後は女性グループ又は一人旅という印象である(そして旅行中、このグループの人々とはいろいろ親交を深めることになった)。

 ミニバスの運転手のすぐ後ろの席に座り、既に暗くなった高速道路を走っていると、直ちに何かおかしいと感じる。何と、空港近辺にあった街路灯がなくなった暗闇の中、走っているバスのヘッドライトが消えているのである。運転手やガイドも既に気がついているが、高速道路上では停車できないということで、そのまま20−30分ほど走り、高速を出た適当な場所で停車したが、その間不安に襲われる。ただ彼らはそんなことに慣れているのだろうか、あるいは眼が良いのだろうか、さして動揺した感じはない。そして代わりのバスが来るまで、30分以上、路上で待機する羽目になった。「もう来たか」という感じであるが、しょうがない。ただ外は涼しく、風が心地よい。バスが到着し、日系ホテルである東横インにチェックインしたのは10時過ぎになっていた。我々夫婦の部屋は当初ツインであったが、シングル2部屋に替えられるということで、夫々の部屋に入り、シャワーを浴び、接続したWiFiで幾つかの連絡を行った後、移動の疲労もあり、11時過ぎには就寝した。部屋には、冷暖房はないが、暑い日本の夏に慣れた身体は心地良い眠りにつくことができた。
 
9月3日(火)

 6時に目が覚め、ブッフェの朝食をとり、その後短時間、日本とのLINE対話を行った後、9時にロビーに集合。この日は草原に向けての出発である。実は、昨晩ガイドのジャガさんから、我々が空港に到着したのと同じ頃、ロシアのプーチン首相もこの国に到着したという話しを聞いた。後に携帯ニュースでも詳細を知ることになったが、それはノモンハン事件80周年の記念行事への参加のためであった。プーチンは、国際刑事裁判所(ICC)より、ウクライナ侵攻により逮捕状が出されている。モンゴルはICC加盟国であることから、本来は逮捕義務があるが、モンゴル政府は「例外規定がある」という理由でプーチンを歓迎し、逮捕しなかったということである。ロシアとモンゴルの強い関係を考えれば、モンゴル政府としては止むを得ない対応だったのだろう。もちろんウクライナは、このモンゴルの姿勢を激しく批判している。ただいずれにしろプーチンは、短時間の滞在でこの国を離れたようである。都会であるウランバートルの街を走る過程で、反対車線を進む、馬に乗った騎馬警察隊を見かけたが、ジャガさんによると、これもプーチン歓迎のためではないかということであった。

 こうして街を小一時間で抜けると、もうそこには広大な草原が広がっている。道路沿いのスーパーで、この日訪れる「遊牧民テント」へのお土産や、夜、宿で呑むビールなどを仕入れた後、11時40分頃、草原に忽然と聳えるチンギス・ハーン騎馬像に到着した。

 共産主義政権時代、チンギス・ハーンは民族主義の象徴として崇拝を禁じられていたことから、この騎馬像も1991年の民主革命以降の1997年の建立である。途中までエレベーターもあったが、私は徒歩で、像の手の部分にあたる展望テラスまで登ると、そこからは、広大な草原が一望される。以降、何度か、こうした高みからの景観を楽しむことになるが、夫々休暇の息抜きを感じる瞬間であった。その後下の建物に降り、チンギス・ハーン関係の展示を眺めた後、午後2時間に「遊牧民テント」に到着した。この一帯は「テレルジ国立公園」と呼ばれる地域である。

 出発前に読んだこの国の概説書でも、「ウマやラクダに衣食住一切を積み、季節移動するこの遊牧生活は、シナとは政治的にも文化的にも全く別の領域」であったと記されているが、現在も遊牧民が人口の相当部分を占める。ただもちろんこの日訪れたテント(ゲル)は、伝統的な形式ではあるが、既に観光用に綺麗に整備された室内となっている。その後の乗馬でもお世話になる一家のテントで、トゥイーアンという焼きそば風の昼食を頂いた後、主人の男性に遊牧生活などについて質問するなどした後、午後3時頃再び移動することになる。

 10分ほどで、「亀石」と呼ばれる、亀の形に見える大岩の横にあるお土産屋に到着。その後、ほとんど舗装されていない砂利道をとおり、チベット仏教寺院であるアリヤバル寺院に到着した。ここは、山の中腹にあるある種の密教寺院であることから、まずは長い参道の坂道を登り、最後は108段の階段を経て到着することになる。気候は涼しいので、登り始めはセーターを羽織っていたが、流石に頂上に辿り着いた時にはそれは脱ぎ捨てることになった。小さいけれども、きれいに整頓された寺院であった。またその後訪れた仏教寺院全てでそうであったが、仏像を含めた内部の写真が自由であるというのにも驚いた。

 午後5時半頃、バスに戻り、午後6時過ぎに、この日から2泊するゲル・ホテルに到着し、チェックイン(504号)した。このゲル・ホテル(テレルジ・スター・リゾート)は、個別シャワー・トイレを完備した「高級ゲル」である。ツアーには、シャワー等備えていないゲル宿泊、というのもあったが、流石にそれは厳しいということで、この選択となったものである。共通の食堂で焼肉中心のモンゴル料理の夕食をとった後(隣の中国人グループが騒いでいてうるさかった)、テントに戻る。シャワー等は良いが、テレビはないので、それこそ何とか接続できたWiFiを使って携帯を見るくらいしたやることがない。この日は空も曇っていて星も見えないので、昼間にスーパーで買ってきたモンゴル・ビールを飲んで午後11時頃には就寝した。

9月4日(水)

 午前6時半頃起床。外は寒いくらいである。7時に朝食を取り10時の出発まで部屋で待機。この日の午前は、今回のツアーの主目的である乗馬である。時間にバス乗り場に降りていくと、直ぐに人数分の馬が引かれて到着した。率いているのは、昨日の「遊牧民テント」で我々の対話などに応じていた男性で、聞くとその家族や縁戚が今日我々を案内するということである。そういうことで、この家族はツアーをアレンジしたHISに様々なサービスを提供して、それなりの金を稼いでいるということであろう。共有のヘルメットや膝当等を装着し、現地の人々が一人数頭を引いて出発した。

 しばらくは舗装された道を歩いていくが、10分もすると草原の中に踏み入ることになる。集団の右は道路で、車が走っているが、その向こうは、ほとんど木の生えていない丘。左側は、小さな川の近辺のところどころにゲルがあるが、後は草原と、その向こうにそびえる同じような丘。馬は時折トロットになる以外はゆっくり動いているので、気楽な乗馬である。心地良い気候と長閑な雰囲気で、眠気さえも感じてくる。1時間ほど動いた後、道路際にそびえる大岩の対岸にある休息所が折り返し点になる。因みに、この大岩の裏にある洞窟は、共産党独裁時に弾圧された仏教僧侶の集団が隠れて拘束を免れたという逸話があるということであったが、私は敢えて見にいくことはしなかった。30分ほど休息した後同じ道を引き返し、午後1時頃にホテルに戻って来た。

 そこで、共通ラウンジで昼食(ホルホグー羊の石焼き料理)を取り部屋のゲルに戻ったのであるが、何か雰囲気がおかしい。照明が全くついていないのである。照明だけでなく、しばらくすると水道やトイレの水も出なくなる。ホテル中停電となったのである。ロビーで確認するとしばらくこの状態は続くということで、午後の予定である3時半出発のトレッキングまで、何もやることのないままぼんやり過ごし、出発前に、ロビー棟の溜水が置かれている共通トイレで用を足してから、3時半にトレッキングの集合場所に向かった。

 午前中の乗馬と反対側に広がる丘陵地へのハイキングである。まあ、この草原のゲル・ホテルでは、馬に乗るか歩くかくらいしかイベントは作れないのであろう。ジャガさんを先頭に、まずは緩い傾斜を登り始める。右上に見える何かの記念碑がこの日の目標であるという。天気は曇り涼しい風が流れているので、心地良い。ただ私自身は、あまり山には興味ないので、こうした散歩はそれこそ全く記憶にないくらい久し振りのトレッキングである。45分ほどで、取りあえず目標地点の高台に到着し、そこにある狼像や簡単なテント風お祈り所と、そこからの雄大な景観を眺めた後、来た道を戻り午後5時頃にホテルに戻った。依然全ホテル停電で水も出ない状態である。結局、7時からの夕食も「キャンドル・ディナー」となったが、恐らくプロパンガスで調理したのだろう、夕食は温かい品が提供された。そして食事時の質問では、8時半には停電が解除されるということであったが、その通り、8時25分にホテルの部屋に灯りが戻ることになった。午後10時、昨晩は空が曇っていて見られなかった星を鑑賞しようということで、ダウンジャケットを羽織り外に出る。ジャガさんの案内で、ホテルの灯りが気にならない場所まで移動し、夜空を眺めることになった。かつて学生時代に、夏に訪れた長野県美ヶ原の夜空に魅了された記憶はあるが、確かにそれ以来の美しい夜空であった。北斗七星や北の大三角形等がきれいに見える中、他の人たちよりも早めにゲルに戻り就寝した。

9月5日(木)

 実質的な最終日である。7時に朝食を済ませた後、ゲル・ホテルをチェックアウトし、8時半にホテルを出発、ウランバートルに向かった。草原地帯を小一時間走り都市部に入ると予想通り朝の渋滞が始まっていたが、都市部の最初の訪問地である「ザイサンの丘」に午前10時頃到着した。

 この丘の頂上にある記念碑は、第二次大戦時、モンゴルがソ連の力を借りて日本帝国主義と闘って勝利したことを祝うもので、昨日はプーチンがここを訪れたということである。そんなことで、昨日は入れなかったようであるが、彼が既に帰国した今日は、むしろ閑散としている。高級住宅街のしゃれたショッピング・マンション・ビルのエレベーターで途中まで上がり、その後は徒歩で頂上を目指す。そこにあるのは、典型的な社会主義時代の労働者賛美の壁絵と記念碑であるが、これは民主化以降もロシアとの関係から撤去することなく維持され、今回のプーチン来訪等に使われているのだろう。ただここからの、ウランバートルの町とその彼方に広がる草原の景観は折からの晴天もあり、素晴らしいものであった。

 1時間ほど滞在した後下に降り、11時に出発。その後は、カシミア工場兼販売店を訪れた後、正午過ぎに町の中心部にあるスフバートル広場に到着した。

 ここは国会議事堂前の所謂「革命広場」で、社会主義時代は、軍の行進等が行われていたようであるが、今は観光広場と化している。中央部に1911年の独立の英雄スフバートルの騎馬像、そして正面の国会議事堂中央にはチンギス・ハーンの巨大な像が鎮座している。このチンギス・ハーンとその両側にある2つの息子像は、民主化以降作成されたものであるという。そうした歴史に加え、ガイドのジャガさんは、この広場で撮影された前述のTVドラマ「VARIANT」の様子等も説明していたが、それを見ていない私にとってはピンとこないものであった。後日この映像を見たら、もう少し違う思いを抱くことになるのだろう。

 1時間ほど広場でゆっくりした後、近所の日本食レストランですき焼風の昼食を食べ、その後恐竜博物館に向かった。ここは、かつては「レーニン博物館」で、ソ連やモンゴルの社会主義革命を展示する博物館であったが、民主化後は改装されて今の姿になったという。モンゴルの古代や自然、そしてチンギス・ハーンの世界帝国の地図などが展示されているが、ところどころに社会主義時代の壁画・彫刻などが残されていた。

 3時前にそこを出て、観光の最後は市内にあるガンダン寺という大きな寺院へ。ここも共産主義時代は破壊されたが、自由化後再建されたということで、大きな仏像が印象的であった。その後ショッピングということで、ナンミン・デパートという老舗百貨店で夕刻の時間を過ごすことになる。買い物に興味のない私は、早々に引上げ集合場所の正面入り口で、ソフトクリームをなめながら皆の集合を待つことになった。現金残高は2000トグルグ=86円位である。そしてそこから最後の最後の余興である「民族舞踊会場」に向かった。

 200-300人程度の小ホールである。5時半に到着したが、開演は6時。その時間までにはほとんど席が埋まることになった。そしてその民族音楽や舞踏を中心とした舞台は予想を超えて面白いものであった。民族楽器を含めたオーケストラ演奏や歌、民族衣装でのダンスや、女性の曲芸等々。結構楽しめる舞台であった。最後の夕食を、しゃれた現代風のレストランで済ませた後、10時前に、初日に宿泊した東横インに到着。シャワーを浴びて直ぐに就寝した。実は、初日宿泊した際、ツイン・ルームをシングル2部屋に変更した後に、追加料金がいるというホテルからの連絡があり、「そんなことは聞いていない」と、旅行中、ガイドやHISを含めた関係者にクレームしていたのであるが、結局初日は無料とし、この日はシングルの追加料金を取る、ということだったので、普通のツインに宿泊したのであった。

9月6日(金)

 そして最終日である。4時半ホテル発ということで、3時40分に起床。6時に空港でチェックインを済ませ、予定通り7時15分発のモンゴル航空(OM501便)で、午後1時40分に成田に帰国した。空港でチェックインしたスーツケースの外付け物入れが壊されるということで、その保険手続きに若干の時間を要した(その保険請求・修理手続きは現在進行中である)が、その後は順調で、午後4時前に帰宅したのであった。

 何よりも、涼しい気候と長閑な草原を楽しめた旅であった。もちろん、暗闇での高速道路走行や長時間の停電など、予想されたトラブルはあったが、決定的なものではなかったので、あまり気にならなかった。そして、事前あるいは旅行中に冒頭部だけ読んだこの国に関する書籍で頭に残っていた知識を時々思い出しながら、雄大な自然と、チンギス・ハーンの大帝国の興亡や、近代の共産党一党独裁から無血革命による民主化といった、そこでの歴史などに思いを馳せることになったのであった。ただ旅行時の印象としては、ここに本当に、中央アジアから一部欧州まで支配した大帝国があった、ということではなく、むしろそこでの遊牧を中心とした素朴な人々の生活をより強く感じることになったのだった。プーチン訪問の経緯は、そうしたこの国のまだまだ簡単ではない舵取りを実感させ、また経済発展についてはまだまだ先が長いことも確かであったが、他方で民主化後、かつての敵国であった日本とへの親近感が強まっていることも感じられた。白鵬や朝青龍といったモンゴル出身の横綱経験者が経営している会社等も、ガイドのジャガさんが時折紹介していた。そして、キム拓の「ラブ・ジェネレーション」がきっかけで日本語を勉強したというそのジャガさんの流暢ではあるが、時折何を言っているか分からない説明を聞きながら、この気楽な旅を終えることができたのであった。この国をまた訪れる機会があるかどうかは分からないが、この国に対する個人的な好印象も残してくれた夏の旅であった。

2024年9月19日 記

(追記)

 今回の旅行中、話題になったドラマ「VIVANT」をようやく全編観ることになった。映画の多くの場面は、モンゴルで撮影されており、そこでは、今回私が旅行で訪れたような草原地帯がふんだんに映されている。そして主人公たちが、かろうじて助けを求めるバラサ国日本大使館は、ウランバートル中心部のスフバートル広場の近くという想定で、まさにこの広場で我々が見て、ジャガさんから説明を受けたスフバートル像やチンギス・ハーン像、そしてそれを取り巻く特徴のある建物が登場していた。なるほど、そういうことだったのか、と頷きながら、そのドラマを観ることになったのである。

 ドラマ自体は、やや奇想天外な話であるが、私が今回は訪れなかったモンゴル西部の砂漠が前半の主要な舞台になっており、そこでのロケは、都会のそれとは比較にならないくらい大変だったことは間違いない。個人的には、同じような砂漠体験は、かつてロンドンから訪れたサハラ砂漠北部くらいであるが、中央アジアのそれも、それに負けず劣らず過酷な感じである。そうした世界を舞台に選んだということで、このドラマが話題となったのも頷ける。

2024年9月23日 記

(追記2)

 このドラマについては、その後全編第10話まで観ることになった。それについては全体の感想を別途「映画日誌・アジア映画」に掲載したので、そちらをご参照頂きたい。

2024年10月9日 記