バリ山行
著者:松永 K三蔵
第171回芥川賞受賞作2作の内のもう1作。タイトルから、かつてシンガポールなどから頻繁に訪れていたインドネシアは、バリ島の山巡りかと思っていたが、読み始めて見ると、舞台は六甲山系で、「バリ」とは「バリエーション」の略であった。通常の登山道とは異なる(バリエーション)「道なき道」を辿る登山のことを指すとのことである。
語り手は、波多という、妻と小さな子供を抱えた普通の建設業界勤務の中年サラリーマン。転職して現在は、補修を主たる業務とする大手ゼネコンの下請け企業で働いている。彼はそれほど人付合いが得意な方ではないが、中途入社であることもあり、多少の人間関係を作ろうと思い会社の登山部に入るが、そこで彼以上に人付合いが悪く、仕事はできるが全くマイペースである妻鹿(めが)という男に興味を頂く。そして会社が経営方針を巡り経営危機に陥る中、会社方針など全くお構いなく仕事を行い、また登山も同様に普通のルートではない道を進んでいるという彼の匿名ブログを見て、彼への同行を求め、その「道なき道」を進む山行に臨むことになる。
こうして波多と妻鹿の六甲山系での「バリエーション山行」が詳細に描写される。私は登山には全く関心がないが、今回のモンゴル旅行で、久し振りに何回か高地に登った際に、そこまで登ったという達成感と、そこから眺めた広大な景観は、確かに日常を忘れさせてくれる新鮮な感覚であった。簡単なハイキングでさえそうであるので、登山、しかも通常ルートではない藪や森林、岩場を越えて目標に到達するまでの過程は、好きな人間にとっては何者にも代えられない快楽をもたらすのであろう。転落の場面を含めたその登山やそこでの自然の描写は、筆者が相当その世界に入れ込んでいることを感じさせる。
小説は、山で転落の危機に陥った波多が、そこで突然会社の経営危機とリストラへの懸念が頭をよぎり、そうした世俗的な懸念に全くお構いなくマイペースの登山に興じている妻鹿を非難、そしてその後妻鹿が、それとなく自ら会社を退社していった後に、自分の妻鹿への非難を悔いながら、彼の現在に思いを馳せるところで終わる。そんなことで、描かれている基本的な舞台設定は、我々の日常世界であるが、そこで「道なき道」を行く登山という非日常世界が挿入されるという作りで、それほど新鮮味のある世界ではない。しかし、前に読んだもう一作の受賞作が、あまりに「訳の分からない」世界であっただけに、ごく普通の小説としてすんなりと読むことができたのであった。
読了:2024年9月18日