産業スパイ
著者:B.フリーマントル
チャーリー・マフィン・シリーズを小休止して読み始めた著者によるノンフィクションである。松本清張もそうであるが、ジャーナリスト出身の著者は、小説に加え多くのこうしたノンフィクションの著作を発表しており、これはその前に出版された「CIA」、「KGB」、そして国際麻薬コネクションを扱った「FIX」につぐ4作目である。前3作も面白そうであるが、何故かこれを先に調達することになってしまったが、それも実際に購入したのは2012年で、今まで積読状態であったものに今回やっと手がついたものである。原著の出版は1986年、邦訳は1988年12月ということなので、私自身のロンドン勤務末期から帰国直後の時期―約半世紀前―の作品である。そんなことで、古さは否定できないが、それにしても著者の調査、分析、そして指摘は詳細且つ的確で、面白い小説を創る背後にある、とんでもない著者の能力に改めて驚きながら読了することになったのであった。
とにかく詳細な取材を行っており、個別のテーマにつきまとめるのは難しい。第一部では、著者の中心テーマであるソ連を始めとする共産圏による欧米軍事関連情報・テクノロジーの密輸とそれに対抗する欧米側の対応の数々の実例の紹介が取り上げられ、続く第二部では民間も交えた知的財産の、日本を含めた東南アジア諸国等による盗難と、知財保有者側からのそれを阻止する闘いが、詳細に描かれる。主たる対象時期である1980年代に、まさにこの双方で鮮烈な闘いが繰り広げられていたことが実感される。そんなことで、ここでは、特に面白かった逸話につき、簡単に備忘録として残しておくことにする。
第一部は、「紅はこべ」こと、リヒャルト・ミューラーという産業スパイの話から始まっているが、この欧米の軍事情報・テクノロジーをソ連東欧圏に伝えていた産業スパイは、まさに著者の小説に登場するような変幻自在の男である。「鉄のカーテン」も易々と越えて居住地を転々とし、複数のパスポートを持ち、そして時には整形手術で顔も変え、莫大な資産を蓄積したという。三大陸の当局から逮捕状が出ていながら―彼の片棒を担いだ何人かは捕まったがー少なくともこの本の出版時点では彼は確保されていない。こうした存在がいる、ということで、彼のフィクションへのロマンも広がっただろうことは容易に想像される。
続いて、米国主導の「ココム」(1949年創設であるが、1980年代までは余り注目されることもなかったという)を巡る欧米間の軋轢(一般の貿易との境界が常に議論となる)や、それをかい潜ろうとするソ連側スパイ(またこの時期から「香港コネクション」を通じた中国の産業スパイ活動も本格化することになる)の情報戦を含めた動きや、「ココム」違反での摘発事例(1982年に発覚した日立や三菱電機によるIBM企業情報不正入手事件―私はあまり記憶になかったがー等が取り上げられている)。ココム違反は、(この本では取り上げられていないが)1987年に発生した東芝機会事件が知られているが、冷戦がいったん終了した現在でも引続きデリケートな課題となっており、それは足元の「新冷戦」下で改めてより強化されることになっているのは間違いない。他方、最近の大川原化工機事件では、ココムではないが、中国への軍事転用機材の輸出が摘発されたが、結果は冤罪として無罪になった。これもある意味、「新冷戦」下での当局の勇み足と捉えられるのだろう。
そして第二部では、一般の民間ベースでの知財を巡るあらゆる分野での「海賊」活動の報告に移る。ここでの主たる「犯人」は日本を含むアジア、特に東南アジア諸国である。
著者は、「ライブ・エイド」楽曲の世界各国での盗作から話を始めるが、そこでまず取り上げられるのは「盗作天国」であるシンガポールで、そこでは独裁者リー・クアンユー自らが、そうした行為に国家絡みで関わり、そのシンガポールを起点にマレーシア、パキスタン、更にはナイジェリア等を通じた流通ネットワークがこうした盗作品の世界的拡大を支えているとされる。ただこうした音楽の盗作は、オランダなどの西欧でも行われており、それに対する欧米著作権協会の闘いも紹介されている。
音楽やビデオについては、2010年代のシンガポールでは既に取締りが強化されており、私自身はマレーシアやタイでこうした違法CDやDVDを相当量購入したものであったが、80年代のシンガポール(そして日本も)こうした状態であったという著者の報告は興味深い。そしてアップル社製のPCから自動車部品、(ベストセラー小説から学校教科書まで及ぶ)本、映画、ゲームに至るまでの民間ベースでの著作権侵害の一大拠点としての台湾や香港―そこでは麻薬取引にも手を染めているマフィアも絡んでいるーが報告され、台湾では著者自身が足を運び、自身の「KGB」海賊版を購入するというオマケもついている。もしその海賊版を台湾から持ち出したことが税関で分かると、台湾法で摘発されていた、という笑えない事態も想定されたということである。また香港の有名ホテルでは、堂々と贋ロールスロイスでの送迎が行われていたという。私も何度も訪れたタイ・バンコクの水上マーケットも、業者からの賄賂で潤う警察の保護も受けた、スコッチからブランド鞄、宝石、時計を始めとする贋物販売の一台中心地である。そしてそうした偽物市場は、フィリピン、韓国、インドなどでも一般的に見られることになる。まさにアジア経済は、こうした偽物作りから成長してきたことが語られるのである。他方、偽造薬となると、経済的な被害のみならず、大きな健康被害をもたらすことになるが、この時期それには欧米の業者も深く関与していたという。そして国家レベルでのスパイ行為と同様、民間盗用の世界でも、中国が参入してきたことが指摘され、この頂戴なルポが締め括られることになる。
この報告から約半世紀を経て、国家レベルでの産業スパイ行為も、民間ベースでの著作権違反もそれなりに管理される状態になってきていることは間違いないことから、この報告は今となっては、現在に至る過渡期の事態と言えるかもしれない。しかし、国家レベルでの「スパイ」行為は、今ではハッカーによるPCデータ侵入、抜取りや、偽情報拡散、あるいは民間ベースでも同様のデータ盗用やランサムウエアーによるデータを人質にとった金銭要求など、形を変えながらも依然膨大な被害をもたらしていることは間違いない。今や90歳近い著者に、その現代的様相をルポするだけの力は残っていないと思われるが、50歳頃の成熟期にこれだけの取材を行いまとめたというのは驚きである。こうした取材が彼の小説にどう使われているのかというのも、これから彼の未読小説群を読み進める際のもう一つの関心事になるだろうと感じている。
読了:2024年11月5日