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川崎通信
人新世の「資本論」
著者:斎藤 幸平 
 1987年生まれの経済・社会思想家による2020年出版の著作で、後期マルクス研究などを参考にしながら、現代社会の脱成長、脱地球環境破壊に向けての提言などを論じている。一時期、新聞等でも宣伝されていたので気になっていたが、今回新書を何となく手に取ることになった。確かに話題となった著作であることから、その現状認識や問題意識はある意味非常に分かり易いが、一方で多くの疑問も浮かび上がることになる。

 著者の大きな議論の枠組みは、まず現状認識として、地球温暖化等の環境破壊は、まさに経済成長と先進諸国による途上国(著者は、ここでは一貫して「グローバル・サウス」と呼んでいるが、長いので以降は「途上国」を使う)からの資源収奪に依存した「帝国的生活様式」が作り出したものであり、それにより人類全体が繁栄する基盤を破壊している。また先進国を中心にした代替エネルギーへの転換やSDGs等の取組みは、結局途上国にその負担を代替させるだけであり、地球規模で見ると決して十分な対応になっていない。そしてその主たる要因は、無限の利益(=成長)を求め、そのために商品の本来的な価値ではなく「使用価値」を追求する資本の性格であり、またその行動が貧富格差を更に拡大させていることにある。従って、その動きを阻止し、本来の「価値」を求め、それを公平に分配するためには、公共財を中心とした「資本」を庶民の手に取り戻し、短期的な利益や成長を諦める必要がある。それができるのは現在の資本主義では不可能なので、新たなコミュニズムに基づく社会を作る必要があるとする。もちろん、そのコミュニズムは、ソ連や中国のそれとは全く異なるものである。こうした議論を、著者は、後期マルクス等を参考にしながら進めることになるのである。

 著者はまず気候変動対策としての二酸化炭素削減についての対応について、先進国がその「帝国的生活様式」により、その負担を途上国に押し付けることで、先進国での環境対策が進んでいるという点を指摘する。結局、先進国は自分のことしか考えていない、何故ならそこで支配的な資本主義は、「収奪とその負荷の外部化・転嫁」という宿命を負っているからだ、という議論である。確かに前段はその通りである。しかしそれが「資本主義の宿命だ」と断言されると、それを何とかしようというのが、現在の国際的な取組みになっているのではないか、と返したいが、それは置いておこう。

 こうした資本主義による技術的、空間的、時間的という3レベルでの「収奪とその負荷の外部化・転嫁」について、著者はマルクスに戻り説明することになる。もちろん現代の気候変動を始めとする地球的課題に、こうした資本の性格が最大の要因となっているという議論はその通りであろう。人類は当然そうした問題に対する挑戦を進めることになるが、しかし著者によれば現在の体制の下でそれを進めるのは困難である、というのが大きな主張となる。

 この挑戦の一つが「グルーン・ニューディール」であるが、これは、気候変動対策としての再生可能エネルギー導入などの経済構造転換を、大型財政出動や公共投資といった国家主導で行うことで、雇用や有効需要を確保しながら成長と更なる投資を促すというもので、著者はそれを「気候ケインズ主義」と呼ぶ。しかし、著者によれば、その対応は既に遅すぎる。何故なら、地球への負荷は既に限界(「プラネタリー・バウンダリー」)を越えており、そこでは経済成長と環境対策の双方を求めるのは困難になっているというのである。

 確かに、現在の再生可能エネルギーへの転換を進めたとしても、気候変動を止めるのは簡単ではないことは誰でも分かっている。また再生可能エネルギーへの転換でも、それに伴う二酸化炭素排出は発生するし、技術革新が進む先進国はともかく、途上国では引続き旧来の技術の使用が続き、全体としてのCo2削減を行うのも簡単ではない。そして著者は、そのために最低でも今や「成長」は諦めるべきであるという議論を展開することになるが、先進国はともかく、途上国は成長を必要としている訳で、それを全体としてどう調和させるかというのが大きな課題となる。もちろん著者が繰り返し指摘しているように、それを資本主義の価格・市場メカニズムだけで行うのは困難であり、それを越えた力が必要となることは間違いない。その力とは何なのか?

 繰り返しになるが、著者は、「気候ケインズ主義」を含め、資本主義のもとではこの「脱成長」を遂げることは困難であるとする議論を展開する。その際の中心的な論点は、南北間の格差の是正ということで、先進国の成長を諦めると共に、途上国の成長を支える「公平な資源配分」を行う方法を探ることになる。そして著者の結論は、資本主義システムのもとではこの「公平な資源配分」が不可能だというものである。そしてそれを近い未来に実現するための、公正と権力の二つを軸とした4つの選択肢を提示する。その内、強権力に依存する「気候ファシズム」は一部の富裕層だけを保護し、また「気候毛沢東主義」は独裁国家を認めることから、そして不公正で権力も弱い「野蛮状態」も選択肢から外れ、公正と弱い権力を基盤とする世界を目指すとするのである。それはその通りであろう。それでは具体的にはどのような社会で、そこへの移行をどう確保するのか?

 まず、著者がそうした社会を形成する上で人的・社会的主体として期待するのは環境運動化グレタ・トゥーンベリのような若いミレニスム世代やZ世代であり、彼らは「グローバル市民としての自覚を持って、今社会を変えようとしている」とする。その他、イギリスの「絶滅への叛逆」やアメリカの「サンライズ・ムーブメント」といった「革命的な」環境運動等がそうした勢力として紹介されている。他方、日本では、「脱成長」が、老齢世代に有利な世代間格差として捉えられる傾向があることから、こうした世界の新しい流れに鈍感になっているとする。そしてそうした新しい流れは、資本主義の枠内では、こうした課題への対応が出来ないとして、それを変革する意欲を高めているとする。著者は、資本主義の枠内での改革論を取上げながら、それらは楽観主義で、もはや地球の破滅を回避できないと批判するのである。彼が目指すのは、「プラネタリー・バウンダリーに注意を払いつつ、経済格差の収縮、社会保障の拡充、余暇の増大を重視する経済モデル」への転換である。彼はそこでマルクスを蘇らせることになる。

 著者は後期マルクスの最新研究を紹介しながら、彼が想定した共産主義社会は、アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の領邦に対峙する「第三の道」で、「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理する社会である。しかも、それを地球規模で実現するため、時として夫々の地域の特徴、伝統的制度さえも利用する。晩期マルクスはこうした非西欧や前期資本主義社会の共同体を維持・復活させることさえも主張しているという。そこでマルクスが見たのは「持続可能性」と「社会的平等」であったのだ。そこに見えるのは、彼が「成長力至上主義」と決別し、「脱成長コミュニズム」に移行した姿である。そしてそこで標榜されるのは、@使用価値経済への転換、A労働時間の短縮、B画一的な分業の廃止、C生産過程の民主化といった課題である。

 こうした議論を経て、著者は改めてそうした「成長力至上主義」と異なる新たなコミュニズムへの移行を促すためには、通常の議会制民主主義では不十分であるとして、新たな社会運動に期待を寄せることになる。改めて、前述のイギリスの「絶滅への叛逆」等の「気候市民議会」、あるいは英国労働党による「ワーカーズコープや社会的所有の再評価」、「フィアレスシティ」と呼ばれる「国家が押しつける新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自体のネットワーク」等が紹介され、特に重要なのは、こうした運動が途上国とも連携した動きとなることだという点が強調される。それこそが「持続可能で公正な社会に向けた」運動であり、それにより「相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズム」実現への道であるということになるのである。

 ということで、気候変動への対応から始まった著者の議論は「脱成長」社会の実現という展望で締め括られることになる。著者の個々の議論は、それなりにまっとうで、その勉強量もさすがという感じである。しかし、読んでいる最中、常に、「それでも何でそれがコミュニズムという結論に跳ぶのか」という疑問が頭から離れることがなかった。

 多くの論点があるが、最大の疑問は、冒頭に提起したとおり、気候変動対策としての二酸化炭素削減についての対応について、先進国がその「帝国的生活様式」により、その負担を途上国に押し付けることで、先進国での環境対策が進んでいるが、それを止めるにはコミュニズムしかない、という議論である。状況はそのとおりであるが、まさに国際的な努力は、それを止めるべく進められている。そしてそれ以外に著者がこの著作で指摘する資本主義固有の利益追求やその結果としての南北や先進国内での生活格差という問題も、コミュニズムのみが唯一の解決策であるという著者の議論は余りに乱暴で、現実の動きを踏まえたものとは思えない。あるいは、「使用価値を重視する社会」という指摘も、「何が使用価値なのか?」という課題が常に残る。そして何よりも、著者が理想とするそうしたコミュニズム社会への移行を担う社会勢力として期待している様々な運動は、ある意味、現在の体制を念頭に置いた現実的な運動で、決して著者が言うようなコミュニズムを目指す運動ではない。結局のところ、著者は後期マルクス研究から、彼が辿り着いたと思われる「脱生産至上主義的社会」を強調するあまり、「コミュニズム」という言葉に縛られ、現実感を失ってしまったのではないか、というのが正直な感想である。更に言ってしまえば、現在のウクライナ・ロシア戦争やガザ情勢等に象徴される国際緊張の高まりのもとでは、自治体の国際連携といっても限界がある。そうした客観的環境を意識すると、著者が提示する理想社会とそこに至る道はそれこそ「夢物語」だということになる。その辺りが、出版時はそれなりの話題となりながら、その後、この著作に言及されることがほとんどなくなっている理由なのではないだろうか?もちろん、ここで著者が展開している個々の議論は、それなりに説得力があり、国際社会が協力して対応していかなければならないものであることは間違いない。しかし、それを解決するのはコミュニズムのみである、という議論がどうしても無理がある、そんな著作であった。

読了:2025年1月2日