アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
川崎通信
ゲーテはすべてを言った
著者:鈴木 結生 
 第172回芥川賞受賞作2作の内のもう一つ。著者は、2001年生まれで、2024年に文藝賞を受賞してデビューしているということである。この前に読んだ「DTOPIA」と比較すると、少しは読み易い作品である。ゲーテを主題に、ドイツ文学者の主人公とその家族、縁戚、関係者を交えた、ゲーテの箴言の根拠を巡る顛末を、多くの文学的、哲学的素材を使いながら、時としてやや滑稽な雰囲気も醸し出しながら描いている。

 主人公博把統一(ドイツが絡むので、読み始めた当初は「ドイツ統一」を連想させ、やや混乱することになった)は、大学教授で日本ドイツ文学会の要職を務めてきた学者である。その妻は、ドイツ文学の恩師の娘で、大学生である彼らの娘もそれに関する専攻を学び、彼女の連れ合い綴喜は統一の教え子という一家である。その統一と娘婿の綴喜のフランクフルト旅行から小説が始まるので、否応なしにその展開に興味が深まる。そこではゲーテ研究者である統一が「ゲーテはすべてを言った」という「ジョーク」が、自分の研究人生の「示導動機(Leitmotiv)」であったと語り、それについての回想が始まる。そしてその後も、ドイツ語を始めとする各種言語による文学表現がちりばめられることになる。

 統一を著名にした著作が、「ゲーテの夢―ジャムかサラダか」ということから、やや話が諧謔に向かうことが示唆される。そして彼らが口にする多くの先人による箴言の内、「愛はすべてを混乱させることなく、混ぜ合わせる」という言葉について、果たしてゲーテが言った言葉かどうかを統一が確かめようとする様子が、話の展開の核になっていくのである。統一は言う。「ドイツ人は、名言を引用する時、それが誰の言った言葉か分からなかったり、実は自分が思い付いたと分かっている時でも、とりあえず「ゲーテ曰く」と付け加えておくんだ。何故なら「ゲーテはすべてを言った」から」。しかし、彼はこの言葉は本当にゲーテが言ったのかどうか疑い、それを確かめようとするが、最後はそれが出来ないまま、出演したゲーテについてのテレビ番組で、ゲーテの言葉として断言してしまうことになるのである。

 というだけの話であるのだが、そこに至るまでにはゲーテを中心とした古今東西の多くの先達の箴言が引用される。ゲーテについては、先日の旧友のユダヤ人問題に関する講演でも引用されていた「詩と真実」から「ファウスト」に至るまでの多くの著作、古典ではテルトゥリアヌス(私は知らなかった名前である)の「不条理なるがゆえに我信ず」、英文学ではブレイクやエリオット、仏文学ではパスカルやラブレー、更には哲学ではニーチェ、ベンヤミン、ウィトゲンシュタイン、あるいはユング、ウパニシャッド、老子、ヘラクレイトス、ヨハネ福音書、パウロ書簡、大江健三郎等々。著者のこの世界での深い造詣が示されることになる。他方、話の展開では、娘と教え子の婚約に至るまでの逸話や、彼が強い絆で結ばれていた同学の研究者の人気著作の盗作事件などが挿入される。後者は、かつて私の別の旧友が学長として巻き込まれたドイツ文学者の盗作事件を思い出させることになる。更に改めて家族4人で訪れたフランクフルト(ゲーテ・ハウスやシュテーデル美術館)からアイゼナッハ(バッハハウスやヴァルトブルグ城)への旅は、私自身のフランクフルト時代を回想させるものである(その後彼らが訪れるワイマールは、結局私自身は行く機会がなかったが・・・)。

 賞のある評者は、この作品を「ゲーテを巡る書誌学的ペダントリー」と称したが、確かに著者のこの世界での幅広い知識は称賛に値する。そして小説としての話の展開は、私がひたすら読み続けている英国作家のスパイ物等に比較すると全く面白くないにも関わらず、この「書誌学的ペダントリー」故に、今後の楽しみを与えてくれたのである。ゲーテは、遠い昔に読んだ「若きウェルテルの悩み」を除けばほとんど今まできちんと接した記憶がないが、旧友の講演会での引用を受けて読もうと思っている「詩と真実」を始めとする彼の作品を、これからじっくり味わっていこうという気持ちにさせてくれた作品であった。

読了:2025年2月21日