西安旅行記
2025年3月6日ー9日
2025年の春、日本がまだ真冬の寒さに震えている中、中国は西安に旅行をすることになった。クラブツーリズムアレンジの気楽なパッケージ・ツアーである。また海外への観光旅行としては、昨年9月のモンゴル旅行以来半年振りである。
西安は、言うまでもなく、唐の時代の首都長安として栄えたが、それ以前、秦の始皇帝から漢に至る時代に建設された街である。そして今回の最大の関心はその始皇帝の墓から見つかった兵馬俑と呼ばれる彫像群である。丁度その直前にTVの衛星放送で、この西安の古代遺跡発掘と、そこから浮かび上がってきた、唐の時代の遣唐使、阿倍仲麻呂や吉備真備たちの生涯を辿る番組もあったことから、それも観た上で、今回の短い旅行に出かけることになった。
3月6日(木)
今回のフライトは、成田空港を午後2時45分発の中国東方航空(MU594便)。西安の予定到着時刻は午後7時15分とあるが、時差は1時間なので約5時間半のフライトである。
中国は、シンガポール勤務の末期2019年の秋に、出張で北京と杭州を訪れて以来であるが、その後はまさに新型コロナ発祥の地ということもあり、全く訪れる気にはならなかった。しかしそれが落ち着いたことや、欧米への旅行コストが円安もあり高騰する中、このツアーは諸費用を入れて10万円程度で収まることから、このタイミングで選択することになった。
映画も音楽もない退屈なフライトを経て、略予定時間に西安空港に到着。日本人のヴィザなし短期滞在が認められたこともあり、入国もスムーズで、出口で待っていた女性ガイドの曹さんと合流した。曹さんによると、我々が到着したターミナル5は昨年10月にオープンしたばかりの新しいターミナルということで、閑散としているがたいへんきれいな建物である。集合してグループの総勢は26人ということが分かるが、ほとんどは私たちより上の高齢者である。外に出ると、夜ではあり涼しいが、寒いという感じではない。バスでのホテル移動の途中で、曹さんが翌日のオプショナル・ツアー料金を勘案した人民元への交換を行うということだったので、若干の円を両替。5,000円=235元ということなので、20円=1元といった目安である。人民元も、国内経済の停滞もあり、対ドルでは売られているということで、円安が目立たない水準である。既に郊外から暗闇の中に浮かび上がる高層住宅群が目に付くことになる。ただの地方都市でも、これだけの高層住宅が並ぶというのは、日本では考えられないが、足元の不動産不況もあり、こうした建物がどれだけ実際に使われているのだろうか、という疑問は(なかなかガイドさんにも質問し辛いこともあり)旅行の最後まで分かることはなかった。
1時間ほどで今回の宿泊先であるグランドノーブル・ホテル(西安皇城豪門酒店)に到着。なかなか豪華なホテル(後に聞いたところでは、元々はJALホテルであったとのこと。JALの経営悪化で売却したということであろうか?)で、部屋も寒い日本から来るとむしろ暑いくらいで、むしろ暖房を消すことになる。シャワーを浴び、接続したWiFiで幾つかの連絡を行った後、移動の疲労もあり、11時過ぎには就寝した。
3月7日(金)
5時半に目が覚め、ブッフェの朝食をとり、8時にロビーに集合。この日は、早速に今回の旅行の目玉である兵馬俑の訪問から始まる。
兵馬俑については、ネット解説では「古代中国で死者を埋葬する際にいっしょに埋められた、兵士や馬などを土でかたどった像で、始皇帝の墓には推定約8000体が埋められているといわれ、現在では約1600体が発見されています。そこで見つかった将軍や兵士の像は一人ひとり違う顔をしており、武器や髪型なども少しずつ異なっています」と書かれている。以前シンガポール時代に、その内の20体ほどが展示されているのを見たことがあるが、2メートル近い巨大さに驚いた記憶がある。それがここでは数千体屹立しているということなので、その壮観さは予想できる。そして1時間半弱の走行で、この歴史遺産の入り口に到着する。既に多くの観光客で賑わっているが、旧正月や国慶節等の祭日に比べると、まだ客足は少ないということである。入口から小型車両で移動し、幾つかある発掘現場の内の最大のものである1号館から回り始めることになる。
ガイドの曹さんの解説を聴きながらの見学であるが、その時は聴いて、なるほどと理解するが、時間が経つとすぐ忘れてしまうのはいつものことである。それにしてもこの石造群は、日本で言うと、皇帝等の墓を守る埴輪ということになるのだろうが、その数と大きさは日本のそれの比ではない。且つ、夫々の武器や髪型、更には表情が異なっているのも大きな特徴である。それが現代になって出土品として発見され、且つ多くの破壊された石像を修復して現在の姿まで持ってきたものであるが、まだ多くが修復中、あるいは発見されていないものも多いという。そして秦王朝は起源前221年〜前206年と、日本で言えば縄文時代の遺跡であるので、この時代にこれほど巨大且つ多数の石像が製造されたというのはたいへんな驚きである。展示の一部には、当時の製造工程の説明もあったが、製造時に必要な熱は薪で加えられ、その際温度を一定に保つ技術などもあったということである。一号館でも、修復途上の像が集められている区画もあったが、それ以外の建物は、それこそまだ発掘途上という感じであった。またある展示場では、ガラスケースに入り至近距離で見られる像もあったが、その周辺はたいへんな人だかりで、ゆっくり見られる状態ではなかった。かれこれそこで2時間ほど過ごし、帰途は、この開発で土地を失った人々のために整備したという土産物屋や飲食店街を徒歩で抜けてバスまで戻り、11時45分そこを出発した。
中華料理の昼食を食べた後、午後まず訪れたのは「大明宮」という唐代(618-907年)の遺跡である。先日のTVでも語られていたが、かつての長安は、その後の戦乱でほとんどが灰燼と化してしまったということで、兵馬俑を含め、遺跡は現代になって発見されたものや、再建されたものである。この大門があった当時の長安城についてネット解説では、「長安城は隋代初年に当たる西暦582年に創建され、唐朝建国の後も首都として踏襲されました。都市の規模は大きく、高い城壁と華麗な宮殿区に官庁街、そして整然と区画された通りがありました。唐の長安城は東西9721メートル、南北8652メートルで、面積は約90平方キロ。100万の人々でひしめきあう国際的大都会として隆盛を極め、後世と外国におおきな影響を与えました。西暦904年、唐は洛陽に遷都し、長安は首都の地位を失い、衰退していきました。」とされているが、この遺跡も、広大ではあるが閑散とした公園内に、当時の大門を再建したものである。門の前では、当時の衣装をまとった新婚のカップルとそれをお祝いする人々の行列がビデオを撮ったりしていたが、とりあえず当時の雰囲気を感じてくれという程度のものである。小一時間滞在した後、次は、阿倍仲麻呂所縁の青龍寺に向かった。
この寺は遣唐使として当地に渡った阿倍仲麻呂が恩師(ガイドさんから名前を聴いたが忘れてしまった)と出会い修行を重ねた場所であるという。彼はその後才能を認められ、玄宗皇帝に仕えると共に、李白ら当時の詩人ら等とも親しく交友したとされる。しかし、帰国を試みたが、船の難破で果たせず、それが百人一首にもある「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」となったという話しなどもガイドさんから披露されていた。そしてその次に日中友好の観点から、この歌を刻んだ彼の記念碑がある興慶宮公園を訪れたが、この辺りになると疲労もあり、短時間眺めただけで、あとはコーヒーを飲んで休息していた。そしてこの日は6時半ごろから、12種類の形が違う餃子を中心とした夕食を済ませた上で、当時を模した歌舞のショウをオプショナル・ツアーとして一人280元を払って観ることになった。最近は各地でこうした「ご当地ショウ」が盛んで、この前にはスリランカでも同じようなショウを見たが、これは唐代の玄宗や則天武后等が主人公の物語ということである。派手な舞台で、それなりに楽しめたが、この手のショウの常で、あまり深みは感じられない。興行社は香港の会社であるということであった。
約一時間でショウは終了し、午後9時頃ホテルに戻り、近所のお土産屋なども軽く回った後、11時過ぎには就寝した。
3月8日(水)
午前6時頃起床。7時半に朝食を取り8時半の出発まで部屋でTVを見て過ごした。昨日の朝晩部屋のTVをつけてみたが、ほとんどが中国語放送で、ニュース番組では丁度この時期始まった全国人民代表会議(全人代)の報道がほとんどである。唯一ある英語放送では、「Americas Now」という報道番組もあったが、米国の貧民層の実情等の米国の社会問題等を取上げたものであり、また定時のニュースでは、もっぱら全人代(この日は前日に行われた王毅外相の演説が中心)と、それに関する内外の識者のコメントー中国からのそれはもとより、豪州と南米からのそれーも、ほとんど中国の内外政策を評価するもので、完全な御用報道であった。考えてみれば、シンガポールのTVニュース等も同じであったので、まあそんなものだろう。たださすがに、シンガポールのそれは、国内問題はともかく、国際情勢に関してはまだ多少ではあるが客観的な報道であったので、中国のそれはやはり鼻について直ぐ消してしまったのであった。
8時半にホテルを出て向かったのは街の城壁である。15分ほどで、長く広がる壁の横でバスを降りる。その前の広場で太極拳等をしている人々を見ながら小さな受付に向かうと、そこが「城壁博物館」の入り口であった。
当時の広大な街の概要地図から始まり、出土品や関連の美術品などを眺めた上で、内部のエレベーターで城壁の上に出ると、そこは、幅20メートルはある遊歩道になっている。城壁の上で乗るレンタル自転車などもあり、またそこではマラソン大会なども行われるという。平日の朝ということもあろうか、一般の市民はほとんど見られず、観光客がほとんどである。空はやや曇っているが気温は高く、清々しい。また城壁の片側から下を見ると、朝の屋台が並び、人びとが集まっている。曹さんによると、その辺りはモスレム地域(ウイグル系というよりも回族が中心であるとのこと)で、売られているのはハラルだとのことであるが、私には集まっている人々の区別は全くつかない。小一時間滞在し、また近くの古い商店街に移動した。そこは入口にある「書院門」という文字のとおり、書道関係者が集まっていた地域であるとのことであったが、小規模のお土産屋が並ぶ街並みが、気持ちを穏やかにさせる雰囲気があったものの、売られているのは安い模造品がほとんどで、買い物をする気にはならなかった。その後、今回のツアー唯一の「買い物店」への案内ということで、絨毯屋を訪れたが、数万円もする絹の絨毯等は全く関心がなく、時間を潰しただけであった。
その後、大学近くで若者が集まる地域にある大興善寺という派手な寺の中にあるレストランで「精進料理(と言っても結構油っぽかった)」の昼食を取った後、西安を離れ郊外にある咸阳に向かった。
漢は、秦の後「農民出身の劉邦(高祖)が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討ち、中国を再統一して建国した」王朝であるが、ここ咸阳が中心であり、その関連遺跡を訪問するということである。ただ、ここでも高層アパートが立ち並ぶ現在の咸阳は、遺跡の発掘を避けるため、当時の中心地からは離れた場所に開発されたということである。高速道路を小一時間走り、午後2時半頃、閑散とした空き地にある小さな「咸阳博物館」を訪れるが、ここは全く小さな建物で、野外に発掘現場等もあるが、退屈。発掘物の多くは、その後再び小一時間走って到着した咸阳市内の博物館に収められているという。そしてそこには、町を流れる大きな河川(黄河の支流)である渭水に沿って建立された劉邦等の墓から発掘された品々が展示されていた。その中で唯一眼を引いたのは、別の「兵馬佣」であった。始皇帝のそれとは比較にならない程小さなものであったが、やはり数は結構多く、劉邦などが始皇帝の伝説を模倣して埋葬したのではないかと想像される品であった。こうした埴輪が、同じく紀元前である漢の時代にも作られていたというのは印象的であった。
こうしてまた市内に戻り、百貨店の上階にあるしゃれた火鍋レストランで、今回の旅行最後の食事を済ませホテルに戻ったのであった。ツアーの数名は食後、街の夜景を眺めるオプショナル・ツアーに参加したが、我々はバスの窓から十分眺めたこともあり、それははしょることにした。ホテル近所で少しばかりの土産品の購入を済ませた後、部屋で翌朝の帰国準備をしたうえで11時前には就寝した。
3月9日(木)
最終日である。朝4時に起床し、5時ホテル発で空港へ。この日の帰国便は8時発のMU593便。空港でガイドの曹さんにお礼を述べた上で別れる。一般的には一本は機内に持ち込めるライターは、中国のフライトでは許容されないと聞いていたが、予想通り通関で引っ掛かり取り上げられることになったことを除けば、気楽な帰国であった。偏西風の影響だろうか、到着予定の午後1時25分よりも約30分早く成田に到着(実質フライト時間は行きよりも1時間半短い4時間丁度であった)して今回の旅行を終えたのであった。
今回の旅行の主目的は兵馬佣で、それは十分堪能したが、それ以外は、やや退屈な旅であった。時代的には秦・漢・唐という古代から中世にかけての中国三王朝を体験するというのが売りであったが、これらの時代は最も新しい唐でさえ、ほとんどが破壊され、その後現代になって再建されたものであるということで、兵馬佣を除けば、純然たる時代感覚を味わうことは出来なかった。もちろん、直前に観たTV番組の様に、こうした遺跡はまだまだ発掘途上であり、今後新しい発見も出てくる可能性はあるが、あくまで発掘物であり、当時の街全体の雰囲気を示すものではない。その意味で、日本や欧州の古代、中世の方が時代を感じさせる街並みが多い。もちろん、中国でも今回訪れた幾つかの寺など、当時の雰囲気で再建された建設物も多いとはいえ、(街中の多くの場所に加えて)そうした寺の壁にある解説の中に、中国共産党の宣伝が混じっているところなども興ざめである。高層アパート群に溢れた共産党支配の現代中国は、そうした歴史から断絶した国作りを行っていると言えそうである。
他方で、前述の通り中国訪問は約5年振りであったが、今回の旅行で、改めて現代中国の経済発展は感じることになった。繰り返しになるが、西安や咸阳といった田舎都市でも高層アパートが林立する景観は異様で、前述のとおり、それが現在の不動産不況の影響を受けているかどうかは確認できなかったものの、シンガポールを除く東南アジアはおろか、日本でもめったに見られないものであった。また街の雰囲気も、シンガポール以外の東南アジアのそれと比較すると洗練されており、通りを行きかう車もEVを含め新しい車両がほとんどであり、街の渋滞などもあることから、それなりに車を購入できる層も拡大しているという印象であった。
帰国直後に観た「国境を越える言論弾圧」と題されたTV番組で、米国での反中国共産党運動に、中国政府の監視が強まり、一部ではそうした反体制派の暗殺等も発生していることが報道されていたが、中国にいる一般庶民は、そうした「強権政治」にはほとんど関心はなく、日々の生活がそれなりに満たされれば国内的には安定しているということになるのであろう。従って、現在の不動産不況が、こうした庶民生活にどの様な影響をもたらすかが大きなポイントになるのだろうが、今回の短時間の旅行で感じた限りではそうした現在の共産党支配体制に対する変動の兆しは全く感じることはなかった。ただいずれにしろT0億人を超える巨大中国の動向には引続き注意していく必要があることを改めて心に刻むことになったのであった。
2025年3月12日 記